蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 リバーシブルチェイン②

夜はやたらと寝苦しかった。

気温は深夜になるにつれ下がるのに、体温は上がっていくばかりで、自分の熱を持て余して何度も目を覚ました。
ぼんやりとした頭の中は、考えたくもないことばかり考えさせる。
上がる息に、熱さに、温くなったタオルの不快さに、苛立ちがのぼる。
指先まで動かないのは、寝ているからか、高熱のせいか。それでも苦しくて、どうにかしたくて、額に乗ったタオルを振り絞った力で退ける。

澱んだような空気が少し動いて。
不意に冷えた何かが、額に触れた。

何かを確かめたくて、目を開けようとした。
なのに重くなった瞼は、開けることを許さない。
どこかで感じたことのある、感触だった。その記憶を働かない頭で考えるうちに、思い当たり、胸が苦しくなった。
――夢だ、こんなの。
だから打ち消す為に唇を動かした。僅かな息が漏れる。それ以外に音は紡げなかった。
額に触れる冷たさは消えない。
夢が、覚めない。
だから、もう一度呟く。今度は、少しでも、思い出さないように。

「…母さん」

今度は、吐息じゃなく。

触れた時と同じように、一瞬でそれは離れる。
ほら、覚めた夢。それを望んだはずなのに。
あぁ、ちくしょう。

夢だとわかっていても。わかっていても。
鼻の先が熱くなる感覚に、眉間に力が入る。
頭の芯を溶かすような熱が、身体の奥底から這い上がってくる気がした。熱さばかり増すのは、熱のせいじゃない。
浅い呼吸を繰り返すうちに、意識が混濁する。
再び額を冷たい掌が触れた気がして、それがまた夢の始まりなのかわからないうちに、意識は深い闇へと落ち込んでいった。




ふと目を開ける。
頭の痛みが随分とましなのは、処方された薬のおかげだろうか。
ふらつくのは最初だけで、起き上がってしまえば、寝不足の朝とそんなに変わらない気がした。

数枚着込んだ部屋着は一晩中の熱のせいで、汗ばんでしまっている。
それらを脱ぎ捨ててから、適当な服に着替え部屋を出た。

姉ちゃんはまだ寝てるのか、家の中は静かだった。
時計を見ればまだ六時、日曜日にそんなに早起きする必要もない。
冷えた炬燵に身体を潜り込ませ、ぼうっと辺りを眺める。
自分の部屋よりも台所が見えるこの場所が、昔から俺の定位置だった。

小学生の時はこの机の上で宿題をしながら、台所に立つ母さんの背中を見るのが俺にとっては当たり前の事で。
他愛のない話をするのも、当たり前の日課で。

学校であった事や友達の事、先生の事、姉ちゃんの事。
その一つ一つに相槌を入れ、時に嬉しそう上げる笑い声。

極平凡な、家庭の一風景。
でも二度と戻らない、光景。

何を話したかなんて、何一つ覚えてない。覚えているのはただ笑いあった、という事。

特別仲の良い親子、という訳じゃない。
どこにでもある、家庭だったと思う。
時に喧嘩もしたし、後数年経てばまともに口も聞かない時期だって、やってきていただろう。
あの時よりもっと距離を置いて、大人ぶって偉そうな口を叩いていたかもしれない。

けれど俺の反抗期も迎えないままに、母さんも親父も目の前から消えてしまった。

もう俺が、反抗期を迎えることは、きっとない。

見慣れた炬燵は、もう随分と古くなってしまっている。
そのまま寝入ってしまったせいで蹴飛ばして緩んだ机の脚だとか、擦れてしまったテーブルの角だとか。
新しくする理由は幾らでもあるのに、それでも、買い換える話は姉ちゃんとの間で、出た事がないのはこれが大事な物だって、お互い思っているからだ。

手持ち無沙汰につけたテレビの画面からは、どこも情報番組しかやっていなかった。
見るともなしに、テレビの上に置いたままの写真が目に入る。
未だ色鮮やかな、最後の家族写真。

俺が中学に入学した時に撮った一枚で、何の煌びやかさも派手さもない、平凡な家族の肖像だろう。
けれどその代わりに、今はもうどこにも無くなって温もりがそこに見出す事が出来る。
苦しくなる。でも、温かくなる。そんな、写真。

悪戯っぽく笑う姉ちゃんと、照れ隠しに不機嫌そうな顔をする俺と。
そんな俺らを挟む様に両側に立ち、嬉しそうに笑う親父と母さん。
かつては確かに存在した、幸せな――幸せだった家族の絵。

それが、その中には今もちゃんと存在していて。その中だけにしか、存在していないような。


「リク? もう起きて平気なの」

後ろから声を掛けられ振り向くと、まだ寝間着姿の姉ちゃんが立っていた。

「なんか…寝飽きた」

「飽きないでよ。寝なきゃ治らないじゃない」

呆れたように笑い近づいてきた姉ちゃんは、俺の額に手をやる。

「あ、でも大分下がったかな」

「平気だってば」

額を覆う白い手は、何かを思い出させるようにひんやりとして心地良かったけど、それからするりと逃れ離れる。


「朝ごはん作るね」

俺の言葉を聞いても、少し心配そうな顔をして見ていた姉ちゃんは、そう言って台所へと向かう。
それから冷蔵庫を物色して、キャベツやら玉葱を取り出して一つ頷く。

「何作んの」

「食べたいものある?」

少し顔を上げて此方を見た姉ちゃんに、少し首を傾げて俺は「何でもいい」とだけ言って炬燵の中に潜り込んでテレビに顔を向けた。
天気予報にニュース。どれも大した話題じゃない。
台所から玉葱を炒める、甘い匂いがしてくる。
少し香ばしいそれに、昨日まで無かった食欲が誘われる。

ピピピ、と不意にアラームのような音が鳴った。
あぁニュース速報だ、と何気なく画面に視線をやると、ニュース速報のテロップが上段に表示されるところだった。

「―――」

目に入る文字に、一瞬息が止まる。

「ニュース何? 何かあったの」

台所からする玉葱を炒める音と、姉ちゃんの声。
弾かれたように、慌てて番組を替えた。
出来るだけ平静を保とうと、一つ深呼吸をする。気付かれないように。

「や、何でもない」

「ふうん」

不審を抱いた様子のない返事に安堵し、目を閉じる。
もうテレビの声は耳には入らなかった。

閉じた目蓋の裏に画面に映った“飛行機墜落”の文字が、鮮やかに蘇る。
墜落だって?
炬燵布団に顔を埋める。感情の波が、通り過ぎるの待った。

「…またかよ」

息が苦しい。
またかよ。小さく呟いた。
きつく握った掌が、僅かに震える。

三年間、一度だって俺は泣かなかった。
俺まで泣いてしまったら、駄目だと自分に何度も言い聞かせた。
泣き叫ぶ姉ちゃんを、これ以上不安にさせないように。
俺がしっかりしなくちゃ駄目なんだって、そう思うことは込み上げるいろんな感情を押し込めさせた。
涙一つが、自分さえも不安にする行為だと、そう思い込んだ。

悲しくても苦しくても、笑えるように。嘘でもいいから。
笑えるように。
本心じゃなくていいから、心は重くてもいいから。
何もなかったように、笑っていなくちゃならなかった。

そんな事をしている内に、俺は本当に泣けなくなった。
――弟なんだからと気にしないでいっそ泣いてしまえば、楽になったのかもしれない。

全て吐き出してしまっていたら、鉛みたいな重みは残らなかったのかもしれない。
でも。
今更そう思っても、無駄だった。
泣くという行為は、とっくにもう俺の中で上手く機能しなくなってしまっていた。



「出来たよ。ほら、起きて」

肩を揺さぶる手に目を開ける。眠っていたわけじゃなかったが、寝ていたように目を擦る。眠たいの、と姉ちゃんが笑う。それでいい。唯一、繋がった相手。

「うん」

緩慢に起き上がって見た机の上には、飴色のオニオンスープに、トーストが置かれていた。

それに甘い香りのする紅茶。

「アップルティー?」

「アップルのシロップも垂らしたよ」

林檎がジンクスみたいな姉ちゃんは、いつのまにか始まっていたトーク番組で笑って答える。

「香りだけじゃね? それって効果あるの」

「さあどうだろ。気持ち的にはあるんじゃないのかなあ」

意味ないじゃん、と苦笑して湯気の立つスープを飲む。
あまり味覚は働かなかったけれど、温かさが心地いい。
丁寧に炒められた玉葱は、スープに溶け込んだような色をしている。
料理なんて全く出来なかったくせに、今では随分器用にこなすようになったと思う。


「まだ九時じゃん。なんかすげえ暇なんだけど」

「しょうがないじゃない、リクが風邪なんか引くんだもん」

「なんだよ俺のせいかよ」

食事の後も二人で何する訳でもなく、他愛のない話をしている間に時間が過ぎていく。
話さなければならない、というのは俺の強迫観念かもしれなかった。
どんな下らない事でもいい。二人でいる時は何かを紡ぐ、そうしなければいけないと思った。

降って降りる沈黙が、怖かった。
静かなことは、人数が減ってしまったことを、否が応にも認識してしまう。

「ビデオでも観ようか」

姉ちゃんが何気なく、思いついたように言った。

「ビデオ?」

「うん、借りたんだぁ」

覗き見た横顔は自然な表情だったけれど、こういう時、俺はいつも思う。
本当はわかってて、姉ちゃんは俺に合わせてくれてるいるんじゃないかって。

「いーけど」

「やった。じゃあちょっと待ってて。取りに行くついでに着替えてくる」

自分だけいつまでも寝間着だった事に気付いたのか、素早く立ち上がると部屋を出て行った。
もう一度注いでもらったアップルティーには、シロップは入れずにストレートで飲む。
先程よりも、ずっと美味いと思った。

「お待たせ。これこれ、面白いんだってー」

戻って来た姉ちゃんは、リモコンを手に取った。

「なんのやつ?」

「あのねえ、ホラーらしいよ」

大げさな口調で振り返る顔は、悪戯っぽく幼く見えて。ふと、テレビの上の写真と重なる。

「げ、」

そのイメージを振り払う。違う、もう、あの時の俺達じゃない。

「見るってゆったじゃん」

唇を尖らせ、パッケージを俺に向けた。
夏前ぐらいからこういう心霊だかホラーだかのツクリモノにハマってるらしく、クラスでも回し合いになってるとは聞いていた。
これで見せられるのは何本目だろう、と換算してみたけど両手じゃ足りない事に気付いてやめた。
不意に体にかかる、重み。

「何してんの」

俺に背を預けるようにして、姉ちゃんは人の足の間に身体を挟みこむようにして座る。

「こうやったら怖くないじゃんか」

「いやいやいや。これじゃ俺、椅子じゃね」

両膝を立てて座る俺の足の間で座る後姿は、父親に甘える小さな女の子みたいだと思った。

「なぁにゆってんの。違うよ、ガードだよガード。何があるかわかんないじゃん。ホントに呪われたりしたらどうすんの」

「作りもんで何言ってんだか。怖いんなら観んなよ」

「だって観たいんだもん。それにさ、一緒に呪われるんなら安心じゃない」

「…何が安心なのかさっぱりわっかんないんだけど…はいはい、いーよいーよ」

後ろから冗談めいて抱き締めてやると、姉ちゃんは安心したように笑ったのがわかった。
本当に小さな女の子みたいだ。
柔らかみのほとんどない身体は、一時期よりは太った。
勿論、それでもまだ足りないくらい程度の、肉付きしかない。

「抱き心地がイマイチ。もっと肉付けたら」

「ふふ、リッちゃんその発言はセクハラだね」

姉ちゃんはたまに俺の事を、小さい時の呼称で呼ぶ。
それは機嫌の良い時に限っていて、姉ちゃんがそう呼ぶ度に安堵する。
温かい。動いてる。話してる。笑ってる。

それが、生きている証拠。


2010年06月09日(水)
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