蜂蜜ロジック。
七瀬愁



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『ねぇ』

彼はいつも俺を呼ぶ時、そう言った。
もしかしたら他の誰を呼ぶ時もそう言っていたのかもしれないが、残念ながら彼が誰かに呼び掛ける場面に遭遇した事がなかったせいでそれは今も判明しないままだ。

『こっち、おいで』

柔らかい声、細められる目、弧を描く唇。
俺には名前が無い。
だから彼も、俺を名前で呼ぶ事をしない。また、付ける事も無かった。
ゴミ溜めの中で生まれた俺に、そんなものが付けられる価値なんて有りもしない事は十分理解していたし、必要だとも思わなかった。

『コーヒー飲む?』
『苺ミルクがイイ』

以前、彼が戯れに飲ませてくれた飲み物を告げる。

『ああ、あれね』

子供みたい破顔して、小さな冷蔵庫を開く。彼の掌が触れるだけで、変哲もない古びた冷蔵庫が、価値の有る物のように思えるから不思議だった。
カウンターに置かれた透明の大きなコップに注がれる薄桃色の液体。
長い指が俺の髪を梳いて、頬を撫でた。
全部飲み干せない内に、満腹になる。
優しいようで残酷な行為。甘美を知れば、乾きが酷くなるだけという事がわかっていて、彼は俺を甘やかす。

『ねぇ』

顔を上げた途端、頬に落ちる唇。
こんな事をされるのは好きじゃない、でも彼だから許した。

『行ってくるね』

作り込んだ柔和な笑み、誠実そうに見せかけた瞳。その首に締められた、紺色のネクタイ。
爽やかな好青年を演じて、あんたは今から誰を殺しに行くんだろう。

『もしもね』

じゃあまた、と別れを告げて振り掛けた手は、その台詞に阻まれた。俺と違って低く心地良い声が、浸透するように身体の中に入り込んで。
目線を合わせるように、背の高い彼は少し屈み込む。

『僕がいなくなったらね』

少し留守にする間の水遣りを頼むように、眼鏡の奥の瞳は穏やかだった。

『あの子に会いに行ってあげて』

諭すように、言い聞かせるように。
でも俺は知ってる、これは本当のあんたじゃないって。
あんたはこんな、穏やかな人間なんかじゃないって。

『あの子?』

それでも、素知らぬ振りをする。そうする事が、彼との約束事で。俺自身の身を守るべき、切り札だった。

『暗いところが大嫌いなんだって』

慈しむような柔らかい微笑を向けて、静かに語りかける。だからお願いだよ、と。

『何言ってんのか分からない』

何処を見てるのか分からない。
何を考えているのか分からない。

『僕が髪を撫でると喜ぶんだ』

遠くを見るようにして、掌をひらひらとさせる彼はとても楽しそうで。作り物の笑顔とは、少し違う色合いに、違和感を感じた。
撫でる、という仕草を再現しているつもりなのかもしれないその手は、代わりに俺の頭を撫でた。

『可愛いよ』

遠くを見る瞳には、何も映っていなくて。俺も映ってはいなくて。
唇が綻ぶ様は、幼くも見えた。
それは一瞬後には、消え失せてしまったものの、その時になって漸くあれは彼の素顔なんじゃないかと思った。
目の前の瞳は、もう俺を映していて、あのあどけない笑みはいつもの顔に戻っていた。
硝子玉みたいに、きらきらとした目に張り付く嘘みたいな笑顔。
そう。嘘みたいな微笑。

『じゃあね』

最後の。声。そうだ、あれが。生きている彼を見た、最後だった。



ほんの少しだけ。
布団が向こうに引かれる感触に、目が覚めた。
狭いベットの中、薄い一枚の布団に二人で包まり、毎夜を過ごした。
慣れるも慣れないも、俺はあるがままの現実を受け止めるだけ。
小さな身体を丸めて、隣で寝る女。少女趣味の極みのように――実際少女というべき年齢ではあるが――長い髪が、肌に触れる距離。寝息はしない。
だが、眠っている事は分かってる。
そっと覗き込めば、幼さを残す口元が目に入った。いつもは偉そうな言葉しか紡がない唇は、いまは閉じられていてその片鱗さえ感じさせない。
日頃、俺を犬だと吐き捨てる傲慢さは鳴りを潜めて、年相応のあどけなさに包まれていた。
俺とそう年は変わらない筈だった。
気まぐれに合わせる事もある素肌がやけに白くて、腕に浮かぶ傷痕が際立って扇情的だった。

「んー…」

無造作な寝返り。更に狭まる距離。
跳ね付けるような動作に、追いやられる。ただでさえ狭いベッドの上なんだ、あんまり寄るなよ。
それが伝わったのかどうかは知らないが、閉じたきりだった瞳がぱちりと開いた。

「…何よ」

その台詞は口癖らしい。
日に何度も聞かされる内に本来持つ意味はなくなり、まるで呼び掛けのようになった。

「こっちの台詞だっての。こんな狭いのに寄ってくるなよ」

緩い波を描く長い髪の合間から、猫みたいな大きい瞳がこちらを睨む。
酷い寝癖。乾かさずに眠るからだ。それを気にする風もない。

「あんたが床で寝たらいーじゃん、ここはあたしの部屋だもん」

せっかく一緒に寝かせてやってんのに、なんてつく悪態を無視して立ち上がる。
聞いていてもキリもなく、利益もない。
寝る場所なんて何処でもイイ、屋根があったら満足だし、なくても構わない。
寒さと飢えに耐えて、泥水を啜る。そんな生活しかした事が、ない。
それしか知らなければ、そんな生活が辛いのだとはわからなかった筈なのに。

小さなキッチンに立ち、水道の蛇口を捻る。そうすれば水が出る事が保証されている事が、奇跡のようだ。
細く静かに流れ落ちる水が、外から入り込む弱い電灯にきらきらと煌いた。
唇を寄せて、僅かに喉を上下させた。生温く黴臭いだけのそれは、それでも喉を潤していく。
黴臭い、なんて、傲慢な台詞が思い浮かぶようになったものだ。
こほ、と咳を一つ。手掌にそれを逃がしてから、シャツを肩に引っ掛けて靴を履いて。

頭を振った。

「…、なんだよ」

背中越しに感じる空気は、動こうとしない。
寝息はしない、それでも眠ってしまったのが分かった。
言うだけ言ってしまえば、気が済んだらしい。
軽い舌打ち。
あんたが眠ってしまったら、出掛けられないじゃないか。
番犬の役目を享受したくはないが、まともな生活を一度知ってしまえば、それから抜け出す事は困難に思えた。
履いたばかりの靴を脱いで、中央に置かれたベッドに足音を殺して歩み寄った。
脇の床に腰を下ろし、シーツの上に頭を乗せる。

眠気が誘われる、穏やかさ。
けれど瞼は閉じれない。
浮かぶ映像は、いつだって同じ。

『ねぇ』

長身のシルエット。欺瞞の優しさ。

『こっちおいで』

ただ、髪にあてがった指を下に降ろすというだけの動作。
柔和な笑み、瞳の中に浮かぶ自己愛。
いつだって彼は同じ表情で、俺に触れる。
形を失ってしまった、今でさえも。
かちかちと、時を刻む秒針の音を意味も無く数えた。
暗闇とまどろみとの合間で、二人分の鼓動が聞こえるような気がした。
正確な間隔で秒針が一分の音を刻んだ時、不意に後ろへ髪を引っ張られた。

「ねぇ」

囁きのような呼び掛け。
一瞬でも動じたのは、不覚だったように思う。

「こっち来て」

髪に絡む細い指の感触に、何故か懐かしくなった。
思わず漏れる舌打ち。
あんたと彼は違う。
姿形も、年齢も、性別も、形成する何もかもが違う。
それなのに同じような言葉を、同じようなタイミングで紡ぐ偶然に揺れてしまいそうになる。

「義正」

彼の名前で俺を呼ぶ高い声に、振り返る。
そこにあるのは柔和な笑みとは程遠い、傲慢な少女の顔。
鼻孔を擽る花のような香り。
それが今の俺の現実なんだと、今更のようにそう思った。

「彼」は確かにまだここに在る。
俺とこの女を繋ぐ、限りなく薄く細い糸として。

【END】

2008年08月27日(水)
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