蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 一秒後は未来

走り出した列車の窓に映る顔は冴えなくて、今にも泣きそうだった。
唇を噛んだって、何の効果もなくて、私は本格的に泣き出してしまった。

別れを告げた私に背を向けた悠斗の傍では、私の親友と楽しそうに笑ってる。
伏せた視界にはそんな想像しか浮かばない。
随分と前から取ってあったチケットを破り捨てる気にもキャンセルする気にもならなくて、結局小さなバッグ一つ持って乗り込んだ車内は、時期はずれのせいか発車駅の為か、とても静かだった。
人目がない事が、私の涙腺を更に緩ませる。
失恋旅行なんて、惨め過ぎる。

私と、悠斗と、鈴香。
高校から同じ大学に入った私達は、とても仲が良くて。
何でも話し合えた。何でも相談できた。
だからすぐに、分かった。
悠人が、誰を気にしているのか。鈴香が、誰を想っているのか。
好きな人が誰を大事に思っているのかなんて、わかりすぎるくらい、わかってしまって。

『あたし、悠斗の事、好きなんだよね』

あの時、遅れて行った鈴香の部屋の玄関で、私は心臓が止まる思いがした。
細く開いた引き戸から漏れる光景の中の悠斗は、とても困っているようには見えなかった。
わかってた。わかってる。邪魔なのは、私。
だから、別れを告げた。

区切られた四人がけの座席に腰を下ろし、ハンカチを取り出して目元を拭う。
白い生地に染み込むマスカラの黒が、さらに惨めな気持ちにさせて。
こんな想い、早く消えてしまえばいい。
デリートキーを切望して止まないまま、窓の外に景色が流れる速度は徐々に速まっていった。

向こうに着いたら、まっすぐ目指す場所は決めていた。
もう一度、悠斗と来る筈だったあの場所で、去年行ったあの場所で、この想いに別れを告げなくちゃいけない。
消さなくちゃいけない。
じゃないと。
――壊れてしまう。
だって、こんなに好きだと体中の細胞が、血液が、鼓動が叫んでる。
まだ、こんなに。
半年経っても、少しも薄まらない想いは、私の中を醜く焦がして。
顔を伏せてハンカチで覆う視界の黒。
小刻みな揺れと共に、リズムを奏でる走行音。
眠ってしまいそうな穏やかさ。
でも眠れる筈がない。
この半年間、ろくに眠れずに泣いてばかりの私。

『別れよう。もう、無理だよ』

笑ってそう告げた私の顔を、苦しそうに見つめた悠斗の顔が忘れられない。
何も言わないでと叫んだのは私だった。
何も言わずに背を向けたのは、悠斗だった。
手を繋ぎあった幸せは、たったそれだけで終わった。

あれから、半年。

二年通った大学を辞めるのに、躊躇は全く無かった。
だって、二人にどんな顔をして会えばいい?
二人が幸せそうに寄り添う姿なんて、見たい筈も無い。
耐えられる筈も、無い。

列車はカーブに差し掛かり、浅く腰掛けていただけの私は、軽く横によろめいた。
頭の中がずきずきするのは、喉が締め付けられるみたいに苦しいのは、涙が止まらないせいで。
ぎゅう、とハンカチを握り締める。
一秒。たったそれだけの時間でさえ、この苦しさは消えない。忘れられない。

自分から離れたくせに。

一秒でいいの。
悠斗の事が頭の中から消えればいい。
心の中で、いち、と数えるのと同時に、車両を繋ぐスライド式のドアが開けられる音がした。
人が歩いて来る気配に、誰かが入って来た事を聴覚だけで知る。
人気のない車内で、靴底のゴムがきゅっきゅと鳴るのが、自分の泣き声に混じって耳に届いた。

その足音はゆっくりとこちらに近付いて来て、この座席の通路でぴたりと止まる。
私の、すぐ横で。
誰もいないのに、席はがらがらなのに、こんなところで止まらないでよ。
鳴咽をしゃくり上げながら、さらに深くハンカチに顔を埋めた。
横に立った人の気配。あぁそうか、私が泣いてるから。見てるんだ、この人。
車掌さんかもしれない。

観光地でもない静かな地を目指す列車に乗る女が一人で泣いていれば、不審がられても仕方ないのかもしれないけど。
何かするんじゃないかって思われてるのかもしれないけど。
あっち行ってよ、そう言ってやりたかったけど、泣き腫らしたこんな顔を上げることも出来ない。

気配は、ちっとも去らなくて妙に私は焦燥した。
そう言えば、靴音はスニーカーのようだった。
思えば車掌がそんな靴を履いている訳がない。
列車はただただ進行方向へと車輪を回し、時折身体を揺らした。
若い女が車輌に一人いる、という現実を、ようやく飲み込むと同時に、急に怖くなって。


「美咲…?」

不意に名前が呼ばれて肩が震えたのは、人のいる所へ行かなければ、と思いハンカチから顔を上げた時だった。

すぐにそちらは向けなかった。
酷い顔を見られたくない事もあったけれど、その声にあまりにも聞き覚えがあったせいで。

「ゆう、と?」

ぐちゃぐちゃになって情けないだけの顔を、通路に向ける。
息が、止まりそうになった。
いるはずの、ここにいるはずのない男。
別れを告げた私に、何も言わなかった男。
今頃、鈴香の部屋で、彼女と甘い睦言を交わしている筈の――恋人だった人で。

他人の空似かと一瞬疑ったところで、他人が私の名前を知る筈もなくて。
あぁやっぱり美咲だ、悠斗が心の底から安堵したように、もう一度私の名前を呼んだ。
労るような、独特の柔らかい響き。

「ずっと、探してたんだ。マンションも引き払ったって言うし、大学にも来ないから聞いたら辞めたって言われるし…」

もしかしたらって思ってここに来たんだけど、正解だった。やけに落ち着いた呟きが、耳に届いた。

「なん、なんで…ここに、いるの?」

呆然と目を見開いた私の表情が可笑しかったのか、悠斗は少しだけ、いつもそうしていたように優しく微笑してから、私の方に手を伸ばして、何かに気付いたように止めた。
私達はもう何の関係もないって事を、思い出したのだろう。もう友達にも戻れず、言葉を交わす事さえ不自然な、そういう事に。

「美咲に、謝りたくて」

この声が私の名前を呼んでくれるのが、好きだった。
感情をあまり表に出さない怜悧な目が、時々私を優しく見つめるのが好きだった。
筋肉質ではないけれど、引き締まったしなやかな腕が、強く抱き締めてくれるのが好きだった。

全部、全部好きだった。
頭がおかしくなるくらい、大好きだった。

自然に出る過去形。漏れた溜め息は、汚れてしまったハンカチにそっと落とした。
自分が下した決断の結果なのに。

「あ、…やまる?」
「うん、そう。だって俺は、」
「やめて」
「美咲?」

なのに、悠斗はその気持ちを現在へ留めようとする。
謝るためにこんな所まで来るなんて、悠斗は馬鹿だ。
いつだってそうだ。
優しくて、人を気遣って、無理をする。
無理をして、私から離れた心のまま、それでも微笑んでくれて。
心は鈴香にあるのに、彼女に惹かれているのに、私に別れを告げられなくて。

今だってそうだ。
謝りたくて?
ただそれだけの為に、こんな所まで私を追いかけて来る。
けれど。それが、どれだけ残酷な優しさなのか、悠斗は知っているのだろうか。

「何を謝るって言うの? 私から別れようって言った事? あれは私が…私が、そうしたくて、言っただけだよ。悠斗は……悠斗に謝って貰う事なんて、何もない」

泣き腫らした目で言ったところで、何の説得力もない事は私自身がよくわかってる。
滑稽だとは知っていたけれど、私が私を保つ為には虚勢を張るくらいしか取れる態度はなくて。
笑ってしまおうとしたのに、開いた唇は震えて情けない声しか出さなくて慌てて噛み締める。
痛みより激しく打ち鳴る鼓動が、気になって仕方なかった。
どうかお願い。悠斗にこの音が聞こえませんように。

会いに来てくれた事は、純粋に嬉しかった。
こんな小さな旅行を覚えていてくれた事も、嬉しかった。
何度も声が聞きたいと思ったし、何度も会いたいと思ってた。
だからこれが悠斗のけじめに過ぎなくても、会えて嬉しい筈だった。

でもこうやって実際に会えば、私に心がない悠斗に会ってみれば、二度と会えないよりもずっと残酷だと知った。
胸の中を開く事が出来たら、私のそこは真っ黒焦げに、煤が飛び散る炭だらけなっているに違いない。

視線を床に落とせば、悠斗のスニーカーが目に入る。
それはいつもお洒落な悠斗に似つかわしくない程に、薄汚れていた。

「美咲は、俺の事が好きじゃなくなったの?」

何気なく、とでもいうように、悠斗が聞いた。自分から離れたつもりは全くないとでも言うように。
落とされた台詞は刃になって、私の見事に心臓に突き刺さる。
その爪先が、きゅっと音を鳴らして、一歩ずつ私に近づく。
その度に、私の鼓動は弱くなる気がした。指先が、震える。
一斉に血が引いたように、感覚が鈍り、喉が凍ったように固まる。
好きじゃなくなった。
それは。その気持ちは。

「悠斗、じゃない」
「美咲?」

俯いたまま声を振り絞る私に、今度こそ悠斗の指が伸びた。

「触らないでっ」

誰もいなくて、良かった。
こんな醜い私を、誰にも見られたて良かった。
本当は、悠斗に一番見られたくなかったんだけど。
でも、もう最後だから、これで終わりだから。

「悠斗でしょ? 私から離れたのは、悠斗でしょ! …私より鈴香の事が、好きなくせに」

悠斗の瞳が逡巡するように揺れ動いて、あぁやっぱり、言っておきながら締め付けられる気持ちは耐えるには辛過ぎる。
継ぎ足すように何か言おうとした時、悠斗の顔から表情が消え失せた。
「知ってたんだ?」
抑揚のない声。冷たい色をした目。私の知らない、表情。とどめを刺された気がして、突き付けられた現実に息が止まる。
「――っ」
何か、言いたくて唇を動かした。だけど、それは音のない映像みたいに、ぱくぱくと開閉しただけだった。
「そうだよ、俺は鈴香が好きだ。好きで好きで仕方がないくらい、好きだ。美咲となんかより、ずっと」

淡々と告げる内容は最後通告に聞こえた。何処か苛立ちさえ感じるのは、今まで我慢してたから?
言いたくても言えなかった気持ちを告げる事を、やっと許されたから?
――心臓が、冷えていく。
す、と細くなる悠斗の目。私を見つめるのに、嬉しさはもう何処にも見当たらなかった。
涙が溢れ、頬を伝う。もう化粧なんて跡形もなく崩れ落ちて、酷い有様に違いなかった。けれど、ハンカチで拭い去る事も出来ずにただ悠斗を見上げて。
耐え切れなくて、両腕で顔を覆い隠して子供みたいに泣きじゃくった。
私――私は、まだ。

「そう言えば、美咲は満足?」

吸い込んだ空気が、ひゅっと喉で鳴った。

「俺が一番好きなのは、大事なのは鈴香だって言えば、満足してくれるの? 帰って来てくれるの?」

そんな訳無い。悠斗が認める度に、心の中がズタズタに裂かれていくのに。
涙が溢れていくのに。聞きたくなんてある筈がない。
「美咲」
「だって、」
だって悠人は。
「そうだね。俺も鈴香は好きだよ」
「や…っ」
手首を掴み上げる腕は、まるで悠人じゃないみたいで、怖いと思った。
「でも、そういう意味で好きなんじゃない」
顔から腕が無理矢理剥がされたせいで、間近で悠斗と目が合う。
だって、私は聞いた。
「でも鈴香は冗談じゃなかった。何度も、俺を好きだって言った。美咲が俺を想うより、好きだって」
「…っ」
搾り出すようにぶつけて、悠斗は私を睨むようにして見下ろした。
「美咲は、俺の事、好きじゃなくなったの?」
さっき言った台詞を、もう一度繰り返す悠斗は、怒っているようにも泣いているようにも見えて。
「ゆう、と」
腕を掴む力が強くなる。
「どうして美咲は俺を信じてくれないの。どうして、俺が鈴香を好きだって思うの。どうして、勝手にいなくなるんだ」
締め付けられる痛みに、突き付けられる言葉の重さに、目を閉じた。
これは現実なのだろうか。泣き疲れて見た都合の良い夢のようで、どうしても信じられなかった。
たった一秒。
目を開けたら、もう悠斗はいないかもしれない。それが、きっと私の現実。
なのに、小さく声に出して数えて目を開けても、悠斗は消えていなくて。

「ゆう…」

あれだけ流した涙は、まだ頬を流れ落ちる。私の体のどこに、こんなに水があるんだろう。
頭の中がずきずきするのは、喉が締め付けられるみたいに苦しいのは、涙が止まらないせいで。
ぎゅう、とハンカチを握り締める。
一秒。たったそれだけの時間が、私の中の涙の意味を変えていく。

「美咲しか、いらないんだよ」

座席の背もたれに押さえ付け、悠斗が私の唇を塞いだ。

【END】

2008年08月25日(月)
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