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■ 「夢」(篤史+泉)
駅から徒歩、十五分。 地上一階分階段を上りきった正面にある、一面硝子の扉。 外観は悪くない。黒とオレンジを基調にしたデザインは、寧ろ洒落てると思う。
人通りが少ないこの沿いで、ある程度客を確保出来るのは、それなりに宣伝効果が上がってきたせいだ。 何とか足を運んでもらう。それが第一段階。 その次は、どれだけ値段に見合った手技と満足を渡せるか。 一人前には程遠い。俺自身はそう思ってる。 ただリピート率が高い事は、少しばかりの自信に繋がるようになってきた。
座った客の頭の高さを平均にして、上壁は硝子張り。 客は視線を感じさせず、立ったままのスタッフのみが外から見える。 縦長になる店内は、広くは無い。 五人のスタッフが各自の仕事に従事するためには、ぶつからないように動き回るにも技がいった。
休業日にシャッターを開けて、雑巾片手に店内を見回す。 昨夜居残ったチーフのおかげか、既にかなり綺麗に清掃されていて、あまりやる事は無いように思えた。
「何、ぼうっと突っ立ってんの」
背中に走る掌の感触。 それはすぐに離され、泉さんはさっさと扉を開けて中へと入って行った。 今週は泉さんと俺と、もう一人が清掃担当になっている。 …だった筈なんだけど、そいつは体調不良とかで来れないと連絡があったのがさっき。
嘘くさいったらありゃしない。
梅雨時期に珍しい晴天、それに休日が重なれば時間外勤務になる掃除なんて、誰だってやりたくないのは本音だ。
なのに、泉さんは「お大事にね」なんて笑みまで浮かべて電話を切るもんだから。
「休むって連絡入れた時の態度の差が俺の時と、すげえ違う気がするんですけど」
言外に皮肉を込めた台詞に、華奢な背中は答えてはくれなかった。
「あぁ電気付けないで、先にライト拭いて欲しいんだけど」
薄く笑みを浮かべ、こちらを振り返る。 巻いた髪が、鎖骨の辺りで揺れるのが妙に扇情的だと思った。 それらを眺めながら、気怠く頷き返せばまた笑われた。
「変な所で根に持たないでよ」
「持ってないです」
俺は多分、感情が表に出やすい。 面白がったような泉さんの表情を見ていれば、鏡で確認しなくてもよく分かった。
「だって、ほら。あの子、多分もう辞めると思うし」
「あの子?」
「佐々木くん」
佐々木。 さっきの電話の主。 そして半年程前に入って来た新人でもある。
「あたし、向上心の無い子には手を掛けない主義だから」
「案外放任なんですね」
「努力家には手塩を掛けるよ」
唇の合間から歯を見せる笑い方は、子供っぽいけれど泉さんがやると悪くない。
「じゃあ、俺は芽がある?」
わざと配管を剥き出しにしたままの高い天井を見上げ、素直な感想述べる。あのライトを拭くには、脚立がいるな、と周囲を見渡せば驚いたような顔をした泉さんと目が合った。
「何? びっくりした顔してる」
時々、無意識にぞんざいな口を利いてしまう。 いつもはその度に注意を受けるのだが、今それを言われることはなかった。
「するよ、そりゃ。なに、杉本くんは自分は芽が無いって思ってた?」
「そーゆーのって自分で判断するもんなんですか」
昨夜使ったのか壁際に置いてあった脚立を運び、また天井を見上げた。 大きなメインライトは四つ。
「するものだよ、自分で。俺は人よりずっと出来るぞって。だからこれくらいはって当たり前に出来るようになるじゃん。まあ、自信家過ぎるのもどうかと思うけど。向上心って、結局そういう事でしょ」
内窓を拭いているらしい泉さんの声が、遠くなる。 陽射しが床に伸びる。 梅雨空の合間の上天気に、清掃なんて、と思うけど仕方ない。 脚立の一段目に脚をかけて。
俺は人よりずっと、ずっと出来るような。 そんな人間に。
「なれるって思ってますよ」
視界の端で泉さんが振り返る。 そちらは見ずに、真っ直ぐ上だけ見上げた。
「…だっていつか、この店の店長になるから、俺」
窓より高い位置にあるその周囲は、妙に薄暗い。 まだ日の高いこの時刻では、そんなに無理な労働でもない。 ただ、定期的に清掃はしているからそんなに汚れてはいないけど、不安定な体勢になりがちな作業は、楽しいとは言えなかった。
「杉本くんさぁ」
「…何ですか」
最後のライトを拭き終わった後、降りて来た俺を待ち構えていたように、泉さんが脚立の傍に立っていた。 窓を拭いていた雑巾はもう手になく、代わりのようにモップを両手に抱えるようにして俺を見る。
「あげないからね」
つい、と寄って来て俺の鼻先に突きつけられた指は、次の瞬間には下を指差す。
「は?」
何のことか分からなくて、同じようにして下を向いた。 下を向いたって、あるのは見慣れた床だけ。
「この店。あげないからね」
怒ったような、笑いを我慢しているような、不思議な声の響き。 そのまま顔を上げれば、間近に笑いを噛み殺すような表情をした泉さんがいて。
「変な所で根に持たないでください」
目を細めてそう言えば、器用に片眉がぴくりと跳ねた。 髪に付いた埃を払ってくれる、細い指。 薄いピンクベージュの爪が、目の前を通り過ぎる。 綾にも似合いそうな、柔らかい色。
清掃が終わり戸締りする泉さんの背と、この店を景色に。 階段を下りて見上げるようにして、外観を眺めた。
「あげないからね」
いつのまに来たのか、冗談めいて俺を睨む泉さん。
「見てただけじゃん」
両手を挙げて苦笑すれば、「送ってあげる」と車の鍵の音がした。
俺がここを譲り受けるのは、もう少し先の話。
********** サイトでの「短文お題」で書いた「夢」を短編にしたものです。 いずれ譲り受けることになるそうです。
2008年07月14日(月)
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