舌の色はピンク
DiaryINDEXpastwill


2022年03月10日(木) 無神経レポーター、マッ愚劣ドナルド、ハロウィン乱痴気

晴れ。まだ寒い。
朝イチで震災地の軽トラ焼きそば屋台を取材していた。
ご主人は震災で亡くした奥さんの遺影を調理スペースに飾っている。
リポーターのタレントがそれを見て
「奥さんに見守られながら作る焼きそばはいかがですか」
と質問していた。
なんか…いくとこまでいったドSプレイみたいだな。
「お前の死んだ妻に見られながら…どんな気持ちだい?」って。
いや解釈でふざけているようだけれど
それ抜きにしても単純に配慮がかけてる質問じゃないかと思った。


弁当は鶏肉の照り焼き。
皮目からパリッと焼いて
醤油と砂糖と胡椒に山椒もちょっと足して仕上げた。


昼休み、隣駅までチャッチャと電車乗って
ブックオフ行った。
帰りは歩いて会社まで。
道すがらコンビニでコーヒーとパン買って歩きながら食べた。
気持ちよかった……。
九段下駅ついてからさらにハンバーガー一個買った。
いつも路上に客を並ばせてる低劣店舗。
どう案内してるものかちゃんと学んでおこうと利用してみたら
まったくひどいものだった……。
まず路上にうろうろとまばらに並んでいる客5人ほどが全員、
並んでいるのではなく注文後に待っているだけだった。
それを店員が放置している。
「ご注文お済みのお客様はこちらでお待ち下さい」もなければ、
「ご注文お待ちのお客様はこちらへどうぞ」もない。
だから路上にこの店の客がうろうろしてる。
僕を含む未注文客もどこに並んだらいいかわからないし、
横にいる先客を差し置いてレジに行っていいものかもわからない。
なのに、よくみると案内のためだけのバイト店員は一人確保されている。
この一人は、できあがった商品を注文済み待機客に「どうぞ」と渡すだけの役で、
まばらな客連中をさばくまではしない。
というかできそうにない。
これが60代前後のうだつのあがらないオジサンなのだ。
こちらとしては店への不快さを露わにすることすらためらわれた。

まあ…こういう経営方針でやってるマクドナルド自体が
やはり愚劣で汚い。
犬畜生にも劣るモラル。
社会のゴミ。一店舗でもなくなった方が世のためになる。
二度とこの店は利用しないし、マクドナルド自体も使いたくない。


近年にわかに旺盛なハロウィンのばかさわぎについて
苦々しく感じている側だったのをちょっと見方改めた。
あれは若い衆にとっての「マツリ」なのであって、
そうしてみれば連中がゴミを散らかしていこうと
「仕方のない奴らだ」と大人たちが笑って
ケツ拭いてやるべきもんなのではないかと。
若者たちの「マツリ」なんて、
よほど管理されている場でしかもはや実現しない。
ハレとケで言えば、ある意味では恒常的にハレは実践されるようになった。
娯楽に満ち溢れ、毎日イベントは催され、
その気になればどこにだって行ける。
だから斟酌しないでもいいようなもんだけれど、
それでも、ああやって乱痴気騒ぎできる場は、もうないのだ。
いまの若者には元気がない、と”勝手に”ため息する連中が、
ああした”勝手な”発散に向けて別のため息をするのは滑稽でもある。
いや迷惑は迷惑だし規制は規制、取り締まりは軟化させるべきでないし
今もっておサムイ行事だという印象は変わらないけれど、
「若者側の気持ちもわかる」という理解の示し方じゃなく、
「大人として気構えを律する」観点も大事だと思った。


夕飯は牛肉ともやしを焼肉のタレで炒めた丼。
なんて美味しいんだ。
ていうか西荻の肉屋で買う牛肉が美味しい。
もうあそこ以外で買いたくないな。

食べながら、録画しておいた
みんなのうた60周年スペシャルを見た。
期待していたほどには楽曲映像が流れるわけではない。
こうした特番にありがちな、スタジオにタレントを呼んで
おしゃべりさせる構成のせいで、かったるい時間が長い。
「これまでの1500曲のなかから、
もっとも多く使われていた単語をAIが分析!」とか
「最も多く出ていた色は?」とか
ホントしょうもないコーナーに時間割いて
それについてさらにタレントに語らせるという…
民法ならまだしも…ばかばかしいったらない。
その分一曲でも多く流してほしかった。

僕はみんなのうたに全然思い入れがないのだけれども、
こうしてみると少なからぬ有名曲が
みんなのうた発祥だったりして驚いた。
ちいさいあきみつけた とか。
おもいでのナントカとか。
ノスタルジックな曲が好きなのは小学2年生のときから。
「小学1年生のころ楽しかったなあ、懐かしいなあ」
って浸ったのをよく覚えている。


兄からベビーカーとバウンサーを貰う件について連絡を入れた。
承諾してもらった。来週末に実家に持っていくとのこと。


21時まで20分ほど妻は原稿…文芸誌の表紙絵を描いていたが
疲れたと言い居間に陣取った。ココアを入れてやった。
ベビー用品の購入予定リストとにらめっこしている。
本来的には今の段階だと他にやるべきことはあるのだが、
どうやら気晴らしにもなっているようだ。
服などは母親にねだるつもりでいるらしく、
その話の流れで義母に電話をかけて話していた。
途中からはスピーカーホンにして三人で。
義母自身、初孫にはいろいろ買ってあげたいらしい。
ありがたい話だ。
この服を着せたい、お宮参りではこう、と盛り上がっていた。
僕は世の多くの父親に等しく、
着飾る方面にはそんなに興味がもてない。
でもまあ実際に着飾られた娘を目の当たりにしたら
舞い上がるのかもしれない。


話題の邦画、ドライブ・マイ・カーを
チェーホフと絡ませて批評した文をTwitterで読んだと、
妻が面白そうな議論をふっかけてきた。
焦点は、生きづらいオジサンの救いかたとなる。
妻の観点の面白さはなんといっても、
フェミニズム文法から発せられる逆説にある。
すなわち、
これまでさんざん”声を上げてきた”女性たちと違って、
男性たちにはそのノウハウがなく、味方や共感を得にくく、
場も形成されていない、あるにはあっても発見されにくい、
または取り沙汰されにくい…といった問題意識だ。
今日の話はあまりまとまりがなかったが、
今月中にドライブ・マイ・カーを見てみようという予定を立てた。

油絵の画題について語ってみたがイマイチ伝わらなかった。
ハロウィンの方については賛同していた。
ただし僕とは向き合い方がちがう。
妻は、もっと大人は子どもに寛容になってやるべきで、
彼らを縛り付ける取り締まりや規制などは撤廃すべきだとする。
僕はむしろ逆で、規制も取り締まりもガンガンやったらいい、
それでも連中が”本当にやりたいこと”ならば、
どんなか細い抜け道だろうと、または罰をくらおうとも、
やる奴はやる…と信じ、それを応援する立場だ。
“本当にやりたい”わけじゃないのにできてしまうゆるやかさが、
莫大な不幸の温床になっているとすら考える。
また、外からの
自由や希望や幸福の像が浸透しきっているのも問題だ。
「私には何もない」という空虚感が、なぜいけないのか?
その人には、その人だけの幸せがあればそれでいいはずだ。

僕はあさひなぐの三須さんを引き合いにして語った。
他の誰にも気づかれない自分だけの誉れを大事にしている三須さんの気高さ。
思い出しただけで泣きそうになる。


それから面白半分に、今日ネット上で見かけた、
どっかの知識層界隈で流行っているらしい問題を持ち出してみた。
「世界中のドアと車輪、どちらの方が多いか?」
これは明らかに、明確な答えを判定できる問いかけではない。
だから思考プロセスそのものに面白さがある。
今回のこれは、ドアと車輪っていう、
なんだそりゃって組み合わせが考えるほど面白い。
まずは定義付けがいる。
何をドアとし何をドアと見なさないか、
車輪と一口に言っても機工に組み込まれた部位も入れるのか…
そして、「世界中の」が肝となる。
自分の生活範囲から逸脱した広大な対象に
どれだけ想像力を及ばせられるか。
これが、なかなか人間が見えるのだ。


寝際の読み聞かせ、今日も二本立て。
アフリカの民話の方は、
清廉実直な貧者が隣の家に住む嫌味たらしい富豪に
馬鹿にされ続けこき使われてきた挙句に
もうあなたのもとでは働いてられないと
辞職を申し出たところ
「あのびんぼうやろう、よくもおれにそんな口を叩けたものだ。
焼き殺してやる!」
というオドロキの展開に。
で実際に火をつけるのだけれど
風がビュウと吹いて富豪の家の方が燃えてしまった。
すべてを失くした富豪は貧者に頼ることとなる。
そのてん末の記述が
「びんぼうやろうと馬鹿にしていた相手よりもっとまずしい、
だいびんぼうやろうになってしまいました」
ナレーションの口が悪い。

韓国の民話は今日も陰惨。
出だしで 処女が と言いだしたから
こりゃもう死ぬか犯されるわと身構えてたら
物語中盤で処女だけが死ぬ疫病が急に流行ってやむなく死んだ。
でも彼女は霊として村人の夢枕に立ち祠を作ってくれと訴えて、
近隣の人は願いを聞き入れこしらえてやった。
そして、ここがよくわからないのだが
村の人達はその後この祠に
木で削った男性器の像をお供えすると
豊漁になるとかいってその新しい風習が定着したと。
あ?


れどれ |MAIL