舌の色はピンク
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| 2021年07月20日(火) |
オリンピコー、差別、歩み寄り |
朝からオリンピックの話題が。 小山田氏がどうのこうの。 先週から話題になってて、昨日の時点で辞退となったらしい。 …この問題については、いろいろいえる。 まず思ったのは、 人格と作品を切り離して見てやれない、幼い芸術観。 第二に、音楽家や芸人は、 …実際にその立場にある方々が度々主張する言葉を借りると… 元々が社会不適合者だからそんな仕事をしてるんであって、 いかれた連中がいかれたこと言ってたってもう、放っておけよという。 で、第三第四あたりはすっとばして、 新たに今日思ったのは、逆説が機能していない。 いじめや障害者差別は忌避されるもの、非難されるもの、駆逐されるべきものだとして、 だからこそ、そうした領分から遠い人間ではなく、 そうした領分を生息域としている人間またはしていた人間によって、 理想は体現・証明される。 なのに、 「障害者差別をする人間だから、パラリンピックに採用できない」 という単純な論法では、 奇しくも流行りの言葉で表されてしまうが、分断が生じる。
歩み寄りが必要だ。 強い人が優しいとは限らないが、優しい人は強い。 賢い人が優しいとは限らないが、優しい人は賢い。 優しい人は強く賢い。 優しさを貫き通すには、強さと賢さがいる。 しかし、 弱くても優しければ、 愚かでも優しければと、 時分に都合いい型に歪めて やがてその価値を自壊させるケースが後を絶たない。 …まあそこはいいや。 差別やいじめをする人、 またはそれをして省みようとしない人よりは、 それを批判できる人間のほうが 賢いつもりなんだろう。僕もそう思う。 だからこそ、歩み寄るべきだ。 子どもと大人なら、大人の方から歩み寄るべきだ。 愚者と賢者なら賢者の方から歩み寄るべきだ。 これが対立であれば、弱者強者の判別において、 弱者に折れろとは言えない。 しかし、対立を乗り越えようとする理想のためには、 この歩み寄りがいるだろう。 そんなようなことを思った。
弁当。 鶏ももニンジン玉ねぎ豆板醤。 すっかり定番。 手間入らずで順当に美味い。頼りになっるー。
今読んでいる「都市のリアル」で興味深い記述を発見した。 都市空間を、可能態と現実態で見分けようとする区分法だ。 折しもアリストテレスのエネルゲイアについては近々勉強したいと思っていた。 「ルフェーベルによれば、空間的要素を目的-手段図式のもとに配置する都市計画家や建築家は、空間それ自体が独立して価値を持つと思い込む空間フェティシズムに陥っている。空間を、そこに埋め込まれた人々の実践や意味付けとは切り離して、もっぱらその面積や容積で評価し、商品として生産したり交換したりできるとする考え方は、抑圧的で、そこに住み込むユーザーの視点を切り落としている、というわけだ。 ルフェーベルの主張では都市は、誰かから押し付けられる無味乾燥な『生産物』ではなく、人々が自ら集合的につくり上げる『作品』でなければならない。手段として別の何かに従属させられるのではなく、それ自体を目的とする、自由な享受の場所でなければならない。そうして国家や資本など、上からの巨大な力によって時間と空間が統御されるような場面では、それら支配の裏をかき、相手の目的を微妙に外させ、自分に都合のよいかたちで我有化することで、ユーザーの自由裁量がきくような余地を確保しなければならない。 束縛への服従状態をまぬがれるとき、<都市的なるもの>の『至高の根拠』としての出会いと集まりの場が切り拓かれる。それはまた『欲望の場所、永続的な不均衡、正常性とか束縛とかの解体の根拠、遊戯的なるものとか予見不可能性なるものの契機となる』。つまり、つまり外的な強制や統御から解放され、複数の要素がぶつかりあい、何が起きるかわからない創発的な渦が生起するところに、ルフェーベルは<都市的なるもの>を見出すのだ。」 いいまとめ方だなあ。 何より、 これまで折々で「手段と目的」という手っ取り早い言葉選びでしか語れていなかった理論が、 前者を可能態、後者を現実態として置き換えるとたいへんしっくりくる。
夜は炊き込みご飯。 市販品の炊き込みの元に、舞茸とタケノコ足した。 具がどどどっちゃりっすわ。 あとコールスロー用意した。 キャベツとニンジン大量に千切りして、 塩で水気を抜く。 缶詰のコーン、マヨネーズ、胡椒で味付け。 塩が多すぎた…。 多いなら多いなりに水で抜けばよかったが マヨネーズで和えてから味見して気づいたから後の祭り。 キャベツ買ってくれば上乗せしてしょっぱみ緩和するだろうけど… 今夜のところはしょっぱいまま。
食後にムース食べた。 今日はタルトなしで。 十分甘いな。
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