舌の色はピンク
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2021年04月16日(金) コノヤローで済ませ

通勤途中
大通りの路肩にトラックが一時駐車されてるのを
ひんぱんに見かける。
今日は自販機かコンビニかの飲料品配送車両の中の
ダンボールが一部開けられてるのを見た。
缶コーヒーが何本か抜き取られてるっぽかった。

そんなわけはないだろうが、
運転手が途中でこじ開けて飲んでしまったのだ、
と想像してみた。
すると配達後、届け先から責められるわけだ。
配送業者としてはありえない過失で、
即座に会社へ報告され、深刻な事態となるだろう。

でもそんないけないことか?とも。
これが互いに会社を通さない、個人取引の商売なら、
各々の裁量で…というのも大げさだ、
そのときの気分次第で、
 「飲んじゃったよ。うまかったゼ!」
 「なにしてやがる。代金払って配送料まけろ」
 「アイヨッ!」
くらいのやりとりで済む話だ。

で、まぁ日本人が中韓とか中東圏で
なんらかの取引をしようとしたときに
よく聞く話だ、こういうのは。
こっちの文化こっちの常識では
到底ありえないようなことをする。
品物を業者が盗んだり、壊したりなくしたり…
で、揉める。
しかし、けど、でも、
それがそんなにいけないことか?
別にいいんじゃないの?
コノヤローで済ませれば。
コノヤローで済まないから社会病理がドンドン加速していく。
盗みが発生すること自体は社会病理なんかじゃないだろう。
これを許さず線引きしなきゃってんで、
成文化された契約やら法やらが整備されて、
それに従おうとして窮屈になって病んで
倫理や道徳を自ら考え抜く必要もなくなっておばかんなって
とまで書くと言いすぎですが。
こんなやり口は西欧とアメリカさんには妥当なのかしらんが
日本に適しているとは全く思えない。
コノヤローでいいと思うんですけどね。
実際問題、ここまで新自由主義が浸透しきった社会じゃ
今さら無理でしょうが。


暇さえあればパオンパオン言ってる。
中学のとき
 パオーン
というのが自分のなかで流行って
辛抱強く続けてたら
友達も気に入ってくれて
 まっちゃんアレやってアレ
とせがまれるまでになった。
 いくよ ヴヴン …      パオーン
という間が大事なのだ。

twitterに書いてる話は
これからガネーシャ像が絡みだすけど
パオン癖とか全く関係がない。

なんとなく辞書を引いていて
歓喜団
という見慣れない言葉が引っかかり
見てみると
菓子だということで
興味ひかれて調べだしてみたら
歓喜天という神にたどり着き
ちょっとおもしろいなと思って
読みもののギミックにこじつけることにした。

主題先行だけど
今回はギミックも凝ってやろうという野望がある。
素晴らしき日々の影響です。

いちおう
書こうとしている主題自体は面白いと思う…。
…"私"が他者と接するとき、他者は情報として扱われがちだ。
情報としての他者は"私"の中に住処をもつ。
作中の私は一部の他者のアドレスを爪に割り当てた。
その一部の他者とは、"私"が忌む敵だ。
社会的通念にとって悪とは限らないし、斟酌の余地もある。
だが"私"にとっては気にくわない。
そんな彼らを"私の地獄"に招待する。
"私"は日々がつらい。
そのつらさには妥当性がない。
社会的通念にとっては苦悩と見なされにくいものだ。
だが"私"にとってはつらい。
"私"の毎日は、心のなかで言い訳ばかりだ。
他人からどう見えようが、すべての行動に、"私"なりの理由がある。
おかしいと断じないでほしい。
"私"は必死で生きている。
それは"私"だけが知っている。
"私"の言語世界のなかでだけ成立している。
"私"の言語世界には言い訳が支配している領域がある。
そこが、"私"にとっての地獄だ。
ならず者たちは、その地獄のなかでどうか、
"私"の言い訳の嵐の中で、"私"の正しさに埋め尽くされてくれ。
その地獄へ落とす手立ては、
すべて"私"の中だけで完結する。
彼は情報として扱われるからだ。
彼自身がどう生きているかは、"私"には手に負えない。
そして…

で、結末につながっていくと。
主題にもかかわるし、場所性は大事にしたい。
住処、地域、サードプレイス。地獄。

主人公は27歳の女だ。
自分のなかで育ててきた女が、
かつては22歳の壁を超えられなかったが、
今はなんとかここまでたどり着いた。
30の大きな壁を前に、
一度、27歳を開放してみたくなった。
そしてまた、その苦悩も書き出してみたくなった。
正直なところ、男であるなら、
オトコである時点でその苦悩は乗り越えられてしまう。
オトコという物語によってだ。
それではその苦悩が現前しないから、女を媒体にする。

ちょっと思ったこと。
現代日本で少年少女のかかえる大抵の問題ごとは、
そりゃあもう押しなべてって言っていいくらい、
漫画で語られてる。
そして文学は必ずしも答えを示さないが、
漫画はなんらかの答えを、少なくとも方針を示す。
だいたい解決されてる。
青少年までいってもそう。
これが青年期までいくとそうでもなくなってくる。
「その頃回収されなかった苦悩」の描出も主題だ。

あとはなんだっけ…。
中途半端なところか。
善と悪、祈りと呪い、などなど二項対立の極端は、
「どちらとも言い切れない」と
「どちらの属性も併せて含有している」という
複雑怪奇な様相を示しがちだ、人間は。
論理の上では並立しないはずのそれらが、
しかし実際並び立つという実相を証明したい。
人は人を呪いながら祈れるし、地獄へ落としながら愛せる。

三千世界。
仏教のフィールドにおいては多種多様な世界がある。
その数は三千にも及ぶ。
自分はその世界のどこに属しているか考える。
しかしそれは逆である。
今ここでこうしている自分の、
一瞬でうつろうめまぐるしい心に、
すでに三千の世界があるのである。
三千の世界が及んでいるのである。
善意も悪意も、祈りも呪いも、
そうした相反し合う情念もひっくるめて、三千の世界が渦巻いている。
自分と関わり合った他者は、その三千の世界のどこかに置かれる。
そのひとつが爪のなかの地獄であるに過ぎない。
自分もまた、誰かの三千世界のどこかに身を配される。
Aさんの、Bさんの、Cさんの…。
そこいらに自分は割拠している。
それぞれの世界にはそれぞれの秩序、ルールがあるはずである。
それぞれの重力があり、それぞれの名付けかたがある。
この世界を…
うーん こんがらがってきた。
まだ整理しきれてないな。


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