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■ let's get on board
そういえばこの週末はライブスタンドなんですね。 しかし私は2日連続で京橋花月にチャリ通い。
■フットボールアワー単独ライブ‘ドレキグラム’ 2010/07/17/Sat_19:30-@京橋花月
月刊コントでみた金の斧銀の斧コントが面白すぎたので行ってみたフットボールアワーの単独コントライブ。 世界の中心で叫びたい、フットボールアワー最っ高やないか!! 座席から転げ落ちるほど笑ったコントライブはバナナマンとフットボールだけかもしれない。 もし2年前のキングオブコントでバナナマンに勝ったのがフットボールアワーだったら、私はあんなにゴネはしなかったと思う。 みっちり2時間半、すべて新ネタコントで超ド級のおもしろさ。 ブリッジがなくて本当によかったわ〜。席が最前列ど真ん中だったせいで両サイドのスクリーンがまったく見えてなかった。あと舞台があまりにも近く、肉じゃがやトーストの匂いがぷんぷん漂ってきました。はらへった。 客層も男(しかもおっさん)が半数近く、最前列は私を含めおひとりさまが多かったような。ああいう客層がついてる芸人はとてもいい。
以下コントリスト。順番と名前はたぶん微妙に違います。
・あかんのんか! ・伊臥喜一郎記念館 ・日本のへそ ・かあちゃん ・DVD(※コント名確認し忘れ) ・WHY ・息子 ・戦場 ・バイバイ
なんだろう、ダウンタウンのごっつええ感じのコントのよう。けど不条理のフォロワーには走らず、フットボールらしく骨太のボケとツッコミが成立していて、笑いながらしんそこ感嘆していました。フットボールアワーはコントのほうがどえらいおもろい。人生にひとつ楽しみが増えたよ。嗚呼なんてすてき。
来週に東京公演&12月にDVDが出るそうなので、内容はぜひそちらで。 おそらく漫才ほど、誰が見てもOKなものではないです。でも見ておいて間違いはないです。そしてフットボールアワーの立ち位置は今のお笑い界でなにひとつ懸念がない。バカにみつかることもないし、消えることもない。行ってよかったーーー!また行く。
自分のための備忘録と感想
・あかんのんか!:ダウンタウンな世界観。昭和の貧しい食卓で世界の終わりのよなつまらない表情で飯を食う貧相な夫婦。夫婦間はほとんど喋らないのに、小さなことでも2人声をそろえて窓の外、「あかんのんか!」と糺さずにおれない。クラクション、吠える犬、近所の笑い声、電車の音、かかってくる電話、深夜の訪問者。しかもただキレるのでなく、非常に理でつめた怒り方。例:かかってきた電話に2人して「ほんまに緊急事態なんか!」「電話のとこまで来る労力に見合う内容なんか!」「ほんまに緊急やったらもう一回かかってくんのんちゃうんか!」等叫んでるうち電話切れる。
・伊臥喜一郎記念館:架空の昭和初期の文豪「伊臥喜一郎」。の、記念館にたまたまやってきた後藤と、案内してくれる学芸員のんちゃん。展示品を次々みていくうちに明らかになる伊臥像。もう爆笑しっぱなし!処女作のタイトルからのメタモルフォーゼ、右腕だけ異常に長かったせいで右腕だけ異常に長い軍服(ふつうに頬杖がつきたかったらしい)、ちん●が6本あったせいで6つチャックがついたズボン。実は文筆業は副業で、本業はレストラン店長。と時代を先駆ける発明家。発明品の数々(クーラー、テレビゲーム、ブーブークッション)がもう、すごい。ち●このくだりで笑いすぎて鼻が出た恥。
・日本のへそ:岐阜県郡上市が「日本のへそ」に決まったので、「日本の左乳首」の座を取りあう宮城県角田市市長(後藤)と宮城県白石市市長(のんちゃん)。これは美しいおバカ。個人的には「日本のアナル」こと下関市民の意見が知りたい。
・かあちゃん:番組ADの息子(後藤)と、田舎に住む母(のんちゃん)の心温まる遠距離電話。AD息子はギャル曽根や三船美佳や佐々木蔵之助をバミってきた。母からの激励:「バミれ」「オフィシャれ」。とにかく「〜る」を命令形にする母。送られてきた段ボールの中はバミり用のガムテというオチ。
・DVD(※コント名確認し忘れ):倉庫で展開される黒服スーツの男2人の争い、ドシリアス。しかし途中で無声になり、録音された2人のお気楽な会話が流れる。劇団の公演DVDの副音声というテイで、演者2人が演技を振り返りつつコメント。その間も無声で大げさな演技をする2人の妙、そしてハプニング。
・WHY:ギター後藤のカッティングにあわせてボーカルのんちゃんが絶唱するWHYネタ。途中からただのWHY語呂合わせ。単独で歌ものがあるといいなあ。客席はギター後藤登場時にえらく湧いてましたが、バラン後藤のほうが好きだ。
・息子:これも椅子から落ちかけたネタ。いろんな意味でおもしろかった!長らく帰っていなかった実家に帰ってきた娘(のんちゃん)と押し黙る父親(後藤)。言わなければいけないことが、と言い淀む娘に父「和夫!」。息子かよ!でもここからが真骨頂。和夫が言い淀んでいた内容は「オナベになりたいの」というもの。オカマじゃなくて!?と理解できない父親。和夫くんがなりたいのはただ男であることがあたりまえの男ではなく、男になりたいと渇望しながら男になりきれない男。現状=女は過程にすぎない。和夫くんはすでに豊胸手術をし、ちん●を切ってしまった。切ったち●こを醤油漬けにしてタッパーで持ってきた和夫くん、ではなくコウ。同じ紙袋に手作りクッキーの入ったタッパーが!ガサツさは和夫の片鱗。そしてコウ嬢はオナべになって和夫に戻るわけではなく、翔馬になる。なんという複雑さ。 常識的な父の台詞がおもろいコントですが、いやはやこれはいろんな意味でおもろい。
・戦場:迷彩服で土嚢越しにライフルを撃っている兵士(後藤)。その後ろからてくてく出てくる幼稚園児(のんちゃん)、場違い。「なあ、おっちゃん、何してるん?」とあくまで無邪気に聞く幼児。戦争って楽しいん?楽しないのになんで戦争してるん?やめたらええやん等、真理を言いつのる幼児についに「メッセージ性が強すぎる!」とメタにつっこむ兵士。お笑いの舞台にそんなんいらんねん。3回ほど繰り返したところでの「ボケてこい!はげヅラとかかぶってこい、突っ込んだるから!」という後藤のツッコミに思いのほかときめいた。ツッコミかっちょいい。最後、敵のライフルに蜂の巣にされた兵士に向かって幼児「よかったなあおっちゃん、よかったやん。天国には戦争なんかないから」、兵士生き返って「メッセージ性強すぎる!」
・バイバイ:ETばりに銀色の宇宙人と仲良くなったロシア系アメリカ人の弟(のんちゃん)。庭の上空に飛来した宇宙船から黄色い光線が降りてきて、宇宙人の子は吸われて上がっていく…はずがなかなか上がっていかない。バイバイに疲れて兄(後藤)を呼ぶ弟。宇宙人は「バイバイ」しか言わない。途中でタコ星人が1匹増えたり、タコはすぐ連れて行ってもらえたり。結局ズルズルっと宇宙船の光に吸われ、長〜く伸びて変わりはてた銀色の物体。兄「こんなんなってもうたらもう死んでるんちゃうん?」宇宙人「バイバイ」弟「ぜんぜん平気みたいやで」うわーブラック。オチはタコ星人がちらっと出てきてポップ。
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ダウンタウンの芸風やスタイルに影響を受けた芸人さんはいっぱいいるけど、ダウンタウンのコントの根底にある「気持ちわるさ」「不気味さ」「居心地の悪さ」を継いでる若手はほとんどいないと思ってた。けどもしかしたら、ダウンタウンの正統を継いでるのはフットボールアワーかもしれない。
ここからいつにもましてめんどくさい話。 でも今回のコントで私がとりわけ好きだったのは「伊臥喜一郎記念館」と「息子」なので、忘れないうちに書いておこう。
終演後、ぞろぞろ出口に向かって歩いてると、カップルが伊臥の異常に長い腕について喋っていました。女性はすごい面白かったって言って、けど男性はなんかああいうのってよくないと思う、という。差別的な意味で笑えなかった、と。それで女のほうも「そっか〜、そういう人が聞いたら傷つくもんな〜」と笑うのをやめたんですけど、ちょ、おい、待て待て!
笑いが根本的に差別をはらんでいるものだ、という構造論は置いといて、お笑いが好きな人は「障害のある人を表現してはいけない」という自分の道徳観念をみつめなおしたほうがいい(※笑ってはいけない、という縛りについては「写真でひとこと」の黒人についての松本人志による的確な指摘参照)。 「差別」はもともと「差異」とおなじ意味。あらゆる人間と人間のあいだにかならず差異はあって、そこに優劣や聖俗や貴賤といった意味がくっついて、1本の線がひかれてサベツになる。人はこのサベツを恐れるあまりに差異までなかったことにしてしまう。だれだって傷つける側には立ちたくない、でも本来ある差異をないふうにしてしまう欺瞞が一番よくないことだ。 研究と仕事の関係上、いわゆる健常でない人に話を聞く機会が多いのですが、指がなくて摺りこぎみたいな手の人に会う時でも長い爪にマニキュアを塗ったままでいく。「私の障害をないものにしないで」という訴えに対して、「あなたと違って私には‘ある’」ことから逃げない意思表明として。それに不謹慎だって眉をひそめるのは健常の人である。なんで人に会うのに謹んで・慎まねばならんのだ。
このまえ仕事で初めて会った営業の人、右手指の第一関節がなかった。聞いたら生まれつきらしい。あとでうちの営業にその話をしたら、10年以上付き合いのある営業さんの指がないことに気づいてなかった。で、「すごいこと聞くね」って。目にとめてわざわざ尋ねる人間は、社会的には無神経でリスキーなんだろう。でも彼が隠していない時点でそれは聞いていいことなんだと思う。
たくさんいるはずの、身体のどこかが多かったり少なかったりする人を、街中でほとんど見ないのはなぜか。善意=思考停止によって、そういう人が黙殺されて不可視化されてしまう世の中だからだろう。障害のある人自身も時に「健常」の考えを内面化してしまっていて、自分で線引きをしてしまう。でも身体のどこかが多かったり少なかったりする人は、昔は聖や神や、あるいは普通の人でもありえた。少なくとも今ほど腫れもの扱いで見て見ぬふりはされなかった。彼らが今のような形で社会から排除されだしたのは、近代になって兵士=有用な身体の規格が確立されてから。 学問にはサバルタン論というのがあって、社会的に抑圧された人間は話すことすらできない、とされている。彼らを黙らせるのは物理的・社会的なもので、たとえ語ったとしてもそれを聞き解釈する側の人間(の善意)によって真意はねじまげられ、覆い隠されてしまう。だから被抑圧者のことばは伝わらない=語りえない。
今、身体のどこかが多かったり少なかったり、長かったり短かったり、あるいは頭がおかしかったり、そういう表現と昔に近い形で出会えるのがお笑いだと私は思っています。サベツや福祉、保障といった通常の文脈に回収されない豊かな形で。だからお笑いが好きなんだけど、地上波のお笑いではもう無理になってしまった。 教養のある人や頭のよい人、心ある人ほど近代教育の影響が濃いので、上記の倫理を内面化してしまっている。本人に聞かずに思いやって推測して、本人になりかわって代弁したり沈黙したりすることは、たとえ善意からであっても横領です。異常に腕が長い人がいたとして、傷つくかどうかは聞いてみなくちゃわからない。異常に腕が長い人10人に聞いたら、10人とも同じ答えになるはずもない。傷つけることを恐れて何も聞かないなら、10人の間にある差異は消えてしまう。それは一人の人間から個性を消して、「障害者」という仮面をかぶせてしまうことだと思う。
もちろんダメなほうでのサベツ的な笑いもあって、それは批判されるべきなんだけど、少なくとも「伊臥喜一郎記念館」はそうじゃなかった。だからあのカップルの女の子が笑わなくなったことが残念でならない。
あー、「息子」についても書きたかったけど長すぎたコレ。 まあややこしい&めんどうな。
2010年07月17日(土)
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