ヒルカニヤの虎



 嘆くことも戻ることもない

さて休日出勤。いい天気だこと。

土曜は幼なじみの結婚式で出雲まで。30人乗りのえらい小さい飛行機でテンション上がる。が、天候がわるくてそれはもうひどく揺れる。ずーっと風神雷神?にのってる感じ。私は乗り物平気なので堕ちませんようにと祈りつつ本読んだり寝たり。着陸するまでに女の人が3人吐いてたけど、どうなんだそれは。しかも空港ついたら道路は大渋滞、タクシーの運ちゃんに裏技つかってもらってギリギリで式に間に合う。よかったー。スピーチに遅れたらきっと縛り首だった。人前式と披露宴だけ出て二次会は参加せずまたあの恐怖の飛行機で帰阪。というあわただしい1日でした。もう20年来のつきあいで、私がどんな私であってもゆらがないでいてくれる、許される気がする古い友達で、八方美人でうそつきな私が唯一たぶんきっと嘘をつく必要のない相手。が、結婚式のいま妊娠3ヶ月というので、時は過ぎてなにもかもがよくなっていくような、でもそこにもう私はいられず無性にどこかへ行きたいような、でもどこへも帰れないような、そんな秋の1日でありました。そしてひさびさに泣いた1日でもあった。情が厚いなあ私ったら。
まあ実際は結婚式そのものに泣いたんじゃなく、花嫁の妹に泣かされたんである。
われわれと10歳はなれた妹は生まれたときからみんなの遊び道具で、なのに思春期で一番むずかしい時期には大学生の姉が大阪におらず親ともなかなかうまくいかず、勉強+メンタルのフォローでなぜか私が家庭教師をして、ともすれば心が閉じてしまうのを無理に楽しいことを教え、何とか今春たのしいキャンパスライフをはじめたのです。私にとっては実の妹のような。弟もいますがこの子は年も近いのでたまに飲む感じ。
この妹と弟が生声+フォークギターで1曲演奏をやったのが非常に涙腺に。大きくなったな、とか生まれたときはうれしかったな、と思って。ああ、この子が結婚したらおばちゃんは鉄板で泣くよ。


3年くらい前まではまったく感じていなかった恐怖がこのごろ心にずっとあった。以前怖かったのは失うことや関係性が変化することだ。失うことは怖いけれど、失うより早く、失いながら獲得すれば喪失の恐怖には耐えられる。のぞまない変化は自身の変化によって克つことができる。獲得するために全力で走るうちに走るスピードが快感になって、失ったものには目もくれないで。いつか走れなくなる日のことを考えるとおそろしくて仕方がなかったけれど、そろそろ走れない日が近いと思いはじめたのがここ1年のこと。変化が喪失に追いつかれてしまう。それはやっぱり恐怖でしかなかった。
わたしが人にたいして貪欲なのは、自分ひとりでみえる世界などたかが知れているから。自分がこわばってしまっていることは、他人によってしか知る術がないから。いまだかつて私ひとりで変われたことがないから。
でも昨日この手に残ったものたちをみて、その変化するさまをみて、違う走り方をさがさなきゃいけないと思った。ひとり走って変化してあとをみないから私はかたはしから失うだけで。同じ速さの人間などどこにもいないのだし。しかも変化することも失うこともきっと悪くはないのだ。なにもかも自分からは捨てないままに開いて、でも速度は変えないためにはどうしたら?



2007年10月28日(日)
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