ぺニンスラフリーメソジスト教会 牧師メッセージ

2007年06月03日(日) 聖日礼拝

「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」 ヨハネ1:3

 今週から、ヨハネの福音書からメッセージを連続で語っていきたいと考えています。ヨハネによる本書は、マタイとマルコとルカは、著作年代も違いますが、視点もかなり違うと言われます。既に書かれていたであろう三つの福音書の存在を知りつつも、更に書く必要を覚え、また聖霊の導きの中で、ヨハネは本書を記したわけですね。そのことを念頭に置きつつ、ヨハネの福音書を開いて参りましょう。
 ヨハネの一章を読んでみてすぐに、「他の福音書とは違うな」と気付いた方も多いでしょう。他の福音書は、イエス様の誕生や公生涯のスタートを、行動的に描いています。しかしヨハネは、ある意味で詩的な雰囲気をもって、本書を書き出しています。他の福音書は50〜60年代に書かれたと言われていますが、本書は90年代とも言われます。つまりヨハネが福音書を記した頃は、他の三人の時代とは違い、イエス様の語った言葉が成就したり、後になって理解できたりしたことがあったわけですね。そんな視点で見てみると、今日の聖句も深い意味を持っているような感じがします。そう、教会が形成されていったこの時代の中で、三位一体の神様をより強く自覚していく、そんな流れが感じ取れるように思えます。父なる神様は、初めから存在されたお方でした。そして御子イエス様も、聖霊もまた、最初から存在した、三位一体の神でした。そしてその三位一体の神様によって、天地は創造され、人は創られたのです。ヨハネはズバリそれを私たちに語りかけています。
 人は猿から進化した・・・と、多くの日本人は信じています。私の子供はアメリカで教育を受けていますので、そのような進化論も学びますが、神様を認めた教育も同時に受けることがあります。実際、二人の娘の担任の先生は、それぞれクリスチャンです(しかも次女の担任は宣教師の娘)。そういう視点で教育を受けれるということは、私にとってはありがたい限りです。だからといって、私は進化論を前面否定しているわけではありません。これはクリスチャンや牧師といっても、立場は様々です。進化論を完全否定する人、神様の創造の業の中にも、御旨のうちに進化は行われたと考える人など、色々な考え方があります。ここでそれを論議するつもりはありません。つまり私が言いたいことは、人間は偶然に出来たのではなく、神様に愛される者として創造された、ということです。
 かなり昔になりますが、こういう話を聞きました。ある人が、ある牧師に相談に来たそうです。「誰からも愛されていない」と言い張る彼女の手首には、いくつものカッターで切った痕が生々しくありました。だから彼女は、自分を愛する人を探し、次々と男性を関係を結ぶのですが、結局はかない愛しか作ることが出来ず、それはあっという間にこわれていきました。またカッターで手首を切る行為は、自殺したいのではなく、自分が生きている唯一の証が流れ出る血であるため、それを確かめるために手首を切る行為を繰り返したということなのです。しかし彼女はそこで、キリストの愛を知りました。自分がここにあるのは偶然じゃない、神様に愛され、創られ、存在しているということを知ったのです。それから彼女の生き方は変わり、高校を無事に卒業し、明るい人生を送っているそうです。
 人は偶然に出来たと思うから、自分の人生に確信が持てません。だから生きている目的が分からず、空しさが心を支配します。でも、信じてください。神様はあなたを愛し、あなたを創り、永遠の命を与えるために命を投げ出したということを。十字架と復活の主は今も生きて、あなたに愛を注いでいます。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師
榊原 宣行



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