| 2007年02月04日(日) |
『日々十字架を負うて』 |
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」ルカ9:23
十字架を負うというと、苦しみを負って生きなさいという、難行苦行を強いているようなイメージを持ってしまいがちです。しかし、本当にそうなのでしょうか? そこで前後の記事に目を留めてみることにしましょう。
9章の前半には、五つのパンと二匹の魚の記事があります。イエス様の手に握られたものによって、全ての人が満足したという出来事です。それに象徴されるように、イエス様が私たちに与えるものは、愛と恵みの糧です。また、9章後半には、変貌山と呼ばれる出来事があります。これは、イエス様が旧約を代表するモーセとエリヤと、これからなされる十字架の救いについて話をしているという記事です。このように、愛と恵みを与えるために、自らが十字架を背負ってくださったお方が、難行苦行の十字架を強いるようなことをおっしゃるとは思えません。
十字架とは、救いの出来事であり、神の愛と恵みが徹底的に表された場所です。ですからその十字架を負うということは、救いの恵みをしっかりと背負って生きるということではないでしょうか。イエス様を第一として生きる者には、永遠の命が約束されるという、それがここで言われていることだと思います。もちろん、私たちはまるで十字架を背負っているような苦しみや悲しみを負ってしまうことがあります。また、消し去ることの出来ない罪を犯してしまうこともあります。しかし、主が用意しておられる永遠の国には癒しがあり、赦しがあります。そのことを受け止め、お互いの人生を歩み続けましょう。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師 榊原 宣行
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