世田谷日記 〜 「ハトマメ。」改称☆不定期更新
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2013年09月23日(月) |
ひとはそれを「政治」と呼ぶ |
矢作俊彦の「ロンググッドバイ」ですっかりいい気分になって、同じ作家の「悲劇週間」と「ららら、科学の子」を買ってあったのだった。続けて「悲劇週間」を読みかけたのだけれど、いつもの矢作作品とは調子も雰囲気も違っていたので、いったん後まわしにして「ららら、科学の子」を手に取った。
これは七十年代、学生運動の季節に、少しばかり考えが足りなかったがために警官を殺しそうになって、文化大革命下の中国へ逃げた(密出国した)男が、三十年の時を経て密入国の形で帰ってくるという話。 この主人公は長年、骨身に沁みこむような辛苦の日々を国外で暮しながら、パスポートもなければ飛行機に乗ったこともなく(!)、生まれた国へ帰っても長年の行方不明という理由から戸籍抹消されている。 携帯電話が鳴っても、それが何なのか、どういうことなのか、わからない。 リアル浦島太郎なのである。
いまや中年となり果てたこの男は、あのとき、あまりにも不注意だったのだ。この世の中に、目には見えないけれども厳然と存在する力学を甘くみてしまった。ひとはこの力学のことを「政治」と呼ぶのだろう。 広義の政治は、永田町や政治家とその周辺にある力学だけを指すのではない。職場や身近な人間関係の中、いわゆる「世間」のなかに不可侵の力学として「政治」の網は張り巡らされている。賢い人間というものは、意識的であれ無意識であれ、普通、その力学とは戦わない。正面から対決するのではなく、力の流れ方をみて「対処」するのである。
読みながらずっと、主人公の不注意、愚かさ、かなしさを、我がこととして感じずにはいられなかった。私が甘くみたものの正体を、この小説を通してはっきりと知ったと言っていい。これまで何度も読後感として「ビタースイート」という言葉をつかってきたけれど、これはそんなこじゃれた言葉では間に合わない。これほど舌に苦い読書があったとは。普通に本を読んで得られる経験を超えているよ…
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ところで、このまえ、矢作俊彦の「ロンググッドバイ」を読み終えるやいなや、その舞台である横浜と数十年ぶりに縁ができたと書いた。一度、横浜へ出かけたいと思っていたら横浜の方(横浜でお店を経営している女性)からお声がかかったのだ。
それだけでもびっくりなのに、この「ららら、科学の子」の主人公が密入国で三十年ぶりに帰ってくるのが、世田谷! 私は去年の春、長い間の念願かなって生まれてから五歳までを過ごした世田谷区へほぼ半世紀ぶりに転居して戻ったばかりなのだ。
「ららら、科学の子」の主人公は、みつからないように注意しながら実家がいまどうなっているのかを確かめに行く。小説の主人公が、実際に私が住んでいる場所の「近所を歩いている」という感覚。 さらに主人公が松陰神社のそばの世田谷区役所へ自分の戸籍がどうなっているのか調べにいくくだりを読むにいたって、なんだかクラクラしてしまった。去年、転居時に転入届と戸籍の移動のために、自分も同じ場所へ行ったときのことを思い出したのだ。
救いがあるのかないのか良くわからない小説だけれど、書かれてから十年後のいま読むからこそ、単純なハッピーエンドなんかあるわけないし、ひとからどう見られようと自分の人生の主人公である自分だけに、人生の分岐点における決定権があるのだということがよくわかる。
刊行時点でかなり評価の高かった小説と記憶しているけれど、当時の自分にはいまのような理解はできなかったと思う。あらゆる意味で、奇跡的に、ベストのタイミングで読むことのできた矢作作品。
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