世田谷日記 〜 「ハトマメ。」改称☆不定期更新
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2013年08月26日(月) |
2013年8月に読んだ本 |
本を読む習慣が静かに、少しずつ戻ってきた。 経済的な理由から新規購入は極力ひかえ、忙しかったころに買って、持ち歩きに不便という理由から長らく積ん読になっていたハードカヴァーを読んだりしていた。 それがなかなか楽しくて、矢作俊彦の「港の永爾ヨコハマ、ヨコスカ」なんか寝食忘れるくらい夢中になってしまった。酷暑のワクワク本4冊。
「異国の客」 池澤夏樹(集英社文庫)
池澤夏樹が家族を連れてフランス、フォンテーヌブローに住んでいた間の覚書的著作のうち、最初の一年間の報告書が「異国の客」、その後の二年半をまとめたのがこの前に読んだ「セーヌの川辺」。読む順番が逆になってしまった。 その「セーヌの川辺」が問題提起に満ちた、ややしかめつらしい内容だったのに比べ、こちらは新しい暮らしの新鮮な楽しさをストレートに伝えていて楽しかった。
ところで「セーヌの川辺」には清水徹という人があとがきを書いていて、この清水さんというひとがどういう人なのかわからない。あ、バレリーナの…と思ってから、それは清水哲太郎さんの間違いだと気がついたり。ネットで調べればすぐにわかるだろうに、なんとなくそのままにしていたある日、エアコンの付け替え業者さんがやってきたのだった。そして工事が終わりお茶も飲み終わり、部屋を出る段になって、壁の書棚の前に立ってじーっと一点を見つめていたのですね。
私はなんとなくもじもじしてしまった。おじさんの見ているのがちょっと恥ずかしいタイトルの本の背表紙だったりしたらどうしようと思って。たとえば「おとこくらべ(嵐山光三郎)」とか「ホモセクシュアルの世界史(海野弘)」とか…。それで、業者さんを玄関まで見送ったあとでおじさんの見ていたあたりを確認してみると、そこにはみすず書房刊「吉田健一 友と書物と (清水徹 編)」というアンソロジーの背表紙が。
おじさんがその一冊の背表紙をガン見していたのかどうかは定かでないけれど、おかげで清水徹さんが仏文学者であることがわかったのだった。まさか、自分の家の中に清水さんの編著があったとは(しかも吉田本の)。あー、びっくりした!
「僕はいかにして指揮者になったのか」 佐渡裕(新潮文庫)
レナード・バーンスタインと小澤征爾を師にもつ指揮者、佐渡裕の自叙伝です。指揮者として正式な教育を受けていない、自称「雑草」、謎の新人が海外のコンクールに勝ち抜いて世界的な指揮者へ近づいていくストーリーにワクワク。やっぱり世界で活躍するようになるひとは、そこへ至るまでの決断と行動力がすごい。
それと、バーンスタインとの師弟関係について書かれた部分が面白かった。世界的なマイスターに対する、無名の佐渡裕の意地と根性。ただ技術的に優れた「良い弟子」であるだけではだめなのだな云々。色々と考えさせられたのでありました。
「三島由紀夫 神の影法師」 田中美代子(新潮社)
意図したわけではなかったけれど、あともう少しで読み終わるというタイミングで終戦の日が来てしまったのだった。今年のその時期、なぜ戦中派は8月15日を「終戦」ではなく「敗戦」と呼ぶのかということを考えていて、なぜなら、死んだ父親も「終戦」という言葉をつかったことがなく必ず「敗戦」という言葉をつかっていたから。
そして今年、この三島に関する本やなにかを読んだりしながらひとつわかったのは、戦の勝ち負けにこだわって(アメリカに負けたから)「敗戦」なのではない、それは、天皇がある日を境に「人間」になったことと関係があるのではないか?ということだった。三島に関する本を読むと、どうしてもこのあたりをウロウロすることになる。気がつくと必要以上にシリアスになっちゃってたりして困るな。
この著者の書いた本で、読み物として面白かったのは「小説の悪魔 鴎外と茉莉」の方だけれど、これは、三島関係本となるとシリアスになり過ぎてしまう読み手側の問題なのかもしれない。
それから、この本を読んでいるあいだ中、ずっと頭の一部で響いている声があって、それは「三島の貰わなかったノーベル文学賞をどうして村上春樹が貰えるわけがあるんだよ」という自分の声なのだった。こいつがなかなかうるさくて、閉口した。
「ロング・グッドバイ」 矢作俊彦(角川書店)
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