2006年07月19日(水) |
レヴィナス『フッサール現象学の直観理論』(第二章) |
●世界は存在しないことがありうる(p39)
・事物の知覚は本質的に非十全的である、という特徴がある。
外的事物の存在様式はまさにそれ自身の可能的否定を含んでいる。 事物は存在しない可能性を持っている。
・存在する仕方における二元性
外的事物は己を顕示するが、この存在者は主観現象の無限の系列のうちで己を告知するのである。
(事物のあり方の)偶然性は存在そのものの一つの内的規定である。
物理世界(偶然性)―意識世界(必然性)
●デカルト的懐疑論とはどう違うのか?
・告知される事物の原理的非十全性(我々の意識にあるあり方を超えられない)を確証する点では 懐疑論にはそれなりの正当性がある。
しかし、懐疑論は認識するものに存在という価値を与えるのを拒んだのである。
○フッサールの場合 具体的意識生において、己を顕示する際の相における外的事物の存在を探求した。
・デカルトは、現れることは確かだ、としたけど、その「現れること(意識にある有り様)」がいったいどういう事なのかは考えなかったらしい。
・懐疑論の場合
主観現象(仮象であって、存在ではない)→→→→→背後の真実(存在) 》いかに真実を認識するかが問題となる《
○フッサールの場合
事物の現れの諸形式は、認識という手続きによって存在者に付加される諸性格なのではない。 事物の現れの諸形式が事物の存在そのものを為すのである。
●意識―絶対存在
フッサール;具体的意識生に絶対存在を付与した。 意識生の概念を転換する!
≪意識外のものに対する意識≫
「私は思惟する、欲する、判断する、意志する」 というようなあらゆる自我体験(自己についての意識) における「私は存在する」という言明に含まれる「存在」は 外的事物に対するそれとは別物である。
それなのに懐疑主義者は同じように扱っている。
「諸体験」は異なる存在様式を持っている。 「それゆえ体験としての存在と事物存在のうちには根本的本質的差異が広がっている。」
意識と実在の区別!!!
・Ein Erlebnis schattet sich nicht ab.「体験は射映しない。」
心的現われ(現象)と存在の間に区別はない。
●内的知覚は十全的である。
懐疑論者にとって、存在とは射映による現われの諸様式をもつ同一者であった。 フッサールは、現れそのものが存在だと言っている。 ☆現われ=自我体験ですから。
●内在的知覚に無の可能性はない。(絶対的自体)
デカルト的なコギトのようだが??
フッサールは内部知覚の懐疑不可能性を意味しているんじゃない。 フッサールは内部知覚の十全的性格を意味している。 こう措定すればこそ、コギトの懐疑不可能性が明証的になるのである。
☆つまりフッサールは意識を単なる反省の対象として考えていないのである。 意識への反省が意識の存在を構成するのではなしに、 意識の存在によって、意識の反省が可能になるのである。 ただし、フッサールはこれについてあまり詳しくは論及していない。
●意識という絶対者の意味
・意識の知覚可能性は外的事物のそれとはまったく違う仕方で準備されている。
・内在的時間意識のうちで構成される事実=体験の存在
・意識は諸体験の存在そのものをなす。 意識生というものがあって、しかるのちに意識生がそれ自身を意識するのではない。
要するに意識は自体的であって、絶対者の存在範域を示すわけである。
●デカルトとフッサールにおけるコギト
デカルトにおいては、感性の分析は 感覚的事物の存在の分析じゃなくて 認識の分析、つまり主観を存在と接触させる道として提示している。(疑わしい認識)
→コギトの認識は、確実性において抜きん出ている!
デカルトは単に、意識が存在したのと同じ仕方で外的世界が存在することを示そうとするだけ。
コギトについて肝心なことは コギトの存在様式そのものである。 コギトがあるから意識が存在するんじゃなく、 意識のこの必然的存在がコギトを可能にする。
デカルトの問いは「存在するのか、しないのか?」
フッサールの問いは「存在とは何か?」
デカルトは意識の存在を空間的事物に倣って解釈した。 同じ仕方で存在するのだけれど、その確実性において外的事物とは違う、と考えていた。
(補足☆意識は自然物じゃない、ということを理解するために、幾つか指摘すべきことがあるだろう。 自然物のように存在しないということは、 ・因果論の支配を免れる可能性がある ・非存在の可能性が無い。 ということである。)
→コギトの独特の性格は、意識の自体性の内的性格として理解されていなかった。
●フッサールの新しさ ―意識と外的事物は認識の確実さで区別されるものじゃない。 本質的に違う。存在の仕方が違う!
―認識と対象を分離しない。
―我々の生の認識様式を、 我々の生の存在様式の特質と見る。
―意識は必然的に存在するという事を言っているんじゃなくて 意識が存在する限りにおいて非存在の可能性は無いという事を言っている。 意識とは自己自身にその都度現在している、ということ。
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●意識の本質に存在が含まれるから、存在する、と言ってる訳じゃないよ。 (存在論的証明じゃない)
●存在性格が絶対的だ。
●反省するという事実から、必然的に存在する、というふうにへーリング氏はフッサールの意見をとらえたけれど、それは誤りである。
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