はぐれ雲日記
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2006年06月08日(木) 喧嘩両成敗


日本の社会では「因果応報」、「喧嘩両成敗」、「泥棒にも三分の利」と言ったように、犯罪の被害に遭うと「被害者にも落ち度があったからだ」と言います。また、テレビのサスペンスドラマや推理小説を見ても、「罪を犯すものにはそれ相当の理由があるのだ。やむにやまれぬ理由があるのだ」ということになっております。
 しかし、昭和55年の東京・新宿駅西口のバス放火事件の被害者、平成7年の東京・地下鉄サリン事件の被害者、平成10年の和歌山・カレー事件の被害者、平成13年の大阪・小学校内殺人事件の被害者等々を見ても、被害者の何が悪かったのでしょうか。実は多くの被害者は、何の落ち度も、罪もないのに被害を受けているのです。また、「被害者が受ける被害」で述べたように様々な被害を受けております。


 日本財団 六分儀 福祉・ボランティア
「犯罪被害者等の早期援助団体」指定を受けて

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上記の記事を読んで。はにほへ雑感。

事実の因果関係を無視して、とにかく仲間の弁護をするために喧嘩両成敗に持ち込むというのは、頭脳構造の杜撰な人たちが無意識のうちに身につけている狡さだと思います。無自覚だから許されるというのは、民主主義以前の時代なら通るのかもしれませんね。現代は一人一人の所有する経済力、物理力が江戸時代とは比較にならないくらい大きくなっているという時代です。国際的に見れば大金持ちの国、日本の人々が悪趣味やアホな行動をすれば、よその国の人々も自然環境もすぐに迷惑をこうむるという時代なのよね。喧嘩両成敗という表現についてですが、これは必ずしも適切ではない表現と書いたのだけれど、司直が被害者に関する失礼な発言をしたとたん、それまでの再三の「事実を語って欲しい」という要請が、場合によっては悪意に転化しうるものだったというふうに遡及解釈して、「最初から喧嘩両成敗的なもの」だったと言うことはできます。メデイア野次馬ご一統というのは、こういうダイナミックな論理というのがまったく理解できない人たちなのですが、近頃の若い法律家なら、これぐらいの論理は認めちゃいます。


鈍角 |MAIL

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