はぐれ雲日記
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寅さんが亡くなったとき、(渥美清さんともいう)家族中で呆然とした。 芸能人、とりわけ映画俳優の死に家族全員が涙することは今まで無かった。これからも無いだろう。たぶん。 亡くなってみてはじめて、自分たちのなにげない暮らしの中にぽっかりと欠けた部分ができたことを思い知った。
粋なねえちゃん立ちしょんべん。ちょろちょろ流れる御茶ノ水・・・。見上げたもんだよ。屋根やのふんどし・・・。 何度聞いても笑い転げてしまうあのカツゼツ。
子ども達が「寅さんに会いたい」と言い出した。看板でもポスターでもいいよと言う。 柴又へとにかく行ってみたいというのだ。 では、記帳に行こうということになり、私と当時小学生の子ども達3人と電車を乗り継いで「とらや」へ行った。 途中、電車を間違えたり、地下鉄の乗り換えでとんでもない遠回りをしてしまったおかげで 柴又帝釈天についたころには日もとっぷりと暮れて草団子屋にはあかりが灯っていた。
皆で団子屋の店内の寅さんの等身大の立て看板に歓声を上げて駆け寄った。 ああ、この店、この店。さくらやおばさん、おいちゃん、タコ社長が「エエッ、寅が帰って来たってー?!」 て出てきそうだった。 葬儀の直後だったため、たくさんの人達が記帳されていた。私達親子も四角い字で大きく名前を連ねた。 店内には真っ白い百合の花が手向けられ、笑った寅さんの写真に合掌した。皆でぺこりと頭を下げた。 それから、草団子を注文して黙って食べた。
京成電鉄柴又駅でもみな、しゃがんだりうつむいたりして帰りの電車を待った。 チンチンチンと、踏み切りの遮断機の音が遠く聞こえた。
子ども心にも、おとなの心にも深く感じたものがある。 それは、人生お金では決して得られないなにかがある。 学校も、職場も、世の中がどうしようもない閉塞状況にある中で、寅さんは義理と人情、美しい心根を持ちつづける ことを教えてくれた。家族の大切さも教えてくれたのだ。
「私 生まれも育ちも 葛飾柴又です 帝釈天で産湯をつかい 姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します」
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