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2014年01月16日(木) |
どんなに時代が変わっても |
Twitterというものを良く知らずに言うのだが、エクアドルで日本人の新婚夫婦が銃撃に遭った事件で、″犯人が特定された″なんていう情報を内相が発表するのに使用するツールなのだろうか。人が死んでいるという重い事件に対する声明を″つぶやく″ためのツールで配信するということに気持ち悪さを感じるわたしは古いのだろうか。
時代は変わったのだなぁとつくづく感じることは多々あるが、最近強い印象を受けたのは朝のJ-WAVEで流れているドコモのCMだ。バックにユーミンをプレイして語られるストーリーの筋は、別居中の家族の話。別居してるお父さんとお母さんがいる。
「月一の電話が週一になり、それが三日に一度になり、、、僕たち今ならやり直せるかもしれない」
というようなことを言っている。別居とか離婚とかする人が増えたから、ぐっときちゃう人も多いだろうという狙いなのだろうか。こういう題材にまったく負というイメージをつけずにむしろ美しい雰囲気を演出してるのが、これまた気持ち悪さを感じる。別居や離婚すること云々ではなく、それを美化することで時代の先端を行く価値観を演出しようとしてるのが気持ち悪い。どんなに時代が変わったって、そういう人が増えたって、少なからず大人同士も子供もみんな無傷でいられるなんてことはあり得ないのに。
会社だって、何かの変更をメールだけで告知してきたりする。みんな一日100通くらいメールを受け取るのだから、見落とす人がでるなんて当たり前なのに、それは結局見落とした人の責任になる。立って話しに行ける距離なのにメール上で喧嘩してたり。相手の目を見て言えない言葉はメールでも言うもんじゃない。先日読んだ北野武の「全思考」に書かれていた言葉がフラッシュバックする。
「人類の英知を結集して、人間の脳味噌を退化させている」
結集した英知とはスマートフォンやネットやメールなど便利なツールのことだ。
「会って話しゃいいじゃねえか。腹が立ってるいるなら、殴り合いの喧嘩をすればいい。好きならどうして手を握らない。一発の挙骨が、一回の抱擁が、1000本のメールよりもたくさんのことを相手に伝えるなんてことはいくらでもある」
昔はそれ以外になかったからそれがあまりにも当たり前だったのだろうけど、今の時代に聞くとそれはそれは感動してしまう。時代がどんなに変わっても生物の本質はそう変化するものではないのでしょう。