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テレビ番組で、ハロウインにパーティー会場を間違えて射殺されてしまった服部君のドキュメンタリーが放送されていた。これを見るまで、運が悪かった、くらいにしか思わなかったが、よくよく掘り下げて見てみると、問題はずっと根が深く、アメリカの定義する″正義″を改めて疑わずにいられない。服部君を撃った男ピアーズは何丁も銃を保持していて、それまでも自分の敷地内に侵入した近所の犬や猫を打ち殺していた。ピアーズの弁護士は刑事裁判で勝訴した時、インタビューに堂々と答えた。
「人の敷地に侵入すれば撃ち殺されて当然。これがアメリカの正義ってもんだ。日本人も知るがいい」
この土地の人々(ルイジアナのバトンルージュ)も、口を揃えて弁護士と同じようなことを言った。撃ち殺されたのが自分の子供だったら同じ″正義″を主張しただろうか。撃ち殺されたのが服部君のような有色人種ではなく、白人の子供だったら?
刑事裁判はこのように幕を閉じたが、損害賠償を求めて戦った民事裁判では服部君の両親側が勝訴した。ピアーズはその後自己破産して行方をくらまし、賠償金はほぼ支払われることはなかったが、それでもピアーズとその妻に罰が下ったことにはかわりなく、多かれ少なかれ彼らの人生に困難が立ちはだかることになった。
マイケル・ムーアのドキュメンタリー映画″Bowling for Columbine"では、アメリカ人の銃による死亡者数は年間軽く1万人を超えていて、これは多くても年間数百という他国の数字とは桁違いだとして、その原因を突き止めていくと、それは″恐怖″だというところに行き着く。建国以来アメリカ人は常に何かに怯えてきたと。歴史的背景は置いておいても、銃社会の中で自分だけ丸腰は恐怖だと考えるのが人間の心理だろう。恐怖の連鎖だ。
全米ライフル協会の副会長とやらは、昨年こんな演説をした。
「銃を持った悪いヤツを止められるのは、銃を持った良いヤツだけだ」
もう、アホか、と呆れてしまう。そもそも″悪いヤツ″に銃を握らせてるのが問題ではないのか。
しかし、つくづくアメリカ人というのは、日常生活の中で実は存在しない敵と戦っているのではないかと思わずにいられない。彼らの敵は恐怖心から想像で作られたものなのではないか。そして、それを撃ち倒すことが″正義″だと。
いつか森アートギャラリーで見た、何重にも鍵をかけて、身動きの取れなくなった自転車を思い出し、そこにアメリカの姿を重ねてしまう。盗まれないように、と自らかけた鍵のせいで、自らが動けなくなってしまうという悲しい姿だった。