My life as a cat
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2012年09月20日(木) 母の梅干

小倉千加子著「アイドル時代の神話」を読んだ。大いに笑って大いに頷いた「結婚の条件」と比べるといまいち納得しかねる話の多いものだった。中でも鈴木保奈美とエコロジーについての箇所。

要約すると、鈴木保奈美は徹底して自然食しか食べないとかそんな人種は気味が悪いと思っている。自身は深夜のコンビニの常連客でプリンやドリトスを買い込むのが好きだ。エコに対する彼女の意見はこうだ。

「人類の未来が危ないのなら、それは根本的なところから打ち崩さなければ建て直しなんて不可能で、今更自然食にしようが何をしようが滅びるものは滅びるのだ」

しかし根本って何?エコロジーを提唱する人々の中にはその根本が何か解らないから自分の身の周りからというたとえ小さくても無よりはいいという健気な思いの人が多いのではないだろうか。そこまで言って具体的な"根本"も示さないのはずるいのではないか。無であることを正当化して小を見下しているという意地悪な印象を受けてしまった。

そして更に著者の見解だ。

「女性にのみ関して言うならば、日本でエコロジー運動をやっている人の圧倒的多数は主婦である。そしてエコロジー主婦の多くが高学歴である。夫はホワイトカラーでエリート層が多い。つまり日本の高度産業化を推し進めてきた当の近代的知の持ち主の妻が、ほかならぬ近代を非難する役割を演じているのだ。 市民運動は、まず余暇がなければできない。無農薬野菜は、裕福でないと買えない。自然を愛する人たちは、自分たちの生計を支えている夫が自然を否応なく破壊することに加担してくれているからこそ、エコロジーをやれる時間的・経済的自由を保障されているのだ」

ここまでは納得。真実でしょう。

「日本にも消費者運動という主婦の運動はあった。だが、それは下火になってしまった。企業を敵にまわすのは結局夫を敵にまわすことになるからだ。かわって主婦たちは、"自分の身の回りからできること"という敗北者の大義を使うことで、箸箱を持ち歩くようになった。身の回りの汚れを祓うことで罪悪感を晴らすエコロジーは、だから宗教の一種なのである。それが逃避だということは企業で働いている女になら容易にわかる」・・・(鈴木保奈美もそれがわかっているのだという結論に結びつく)

うーん。。。企業で働いてるけど、わかんないねぇ。じゃぁ、夫の働く会社が自然破壊してます。だから自分も思う存分自然破壊しますっていったら一体この地球はどうなるの?そういう行為こそを逃避と呼ぶのではないですか。生きていく上で環境汚染に加担せずにお金を取るという行為は少なくとも日本では、日本人には難しいことでしょう。いきなりソマリアの遊牧民みたいになれといっても無理な話でしょう。"身の回りからできることを"実行する人々を敗北者と呼ぶなら、何事も完璧を目指すあまりに、この世の矛盾にばかり気をとられて何一つ実行しない人々はなんなのだろう。エコロジーに興味を示さない人々を批判などしないけれど、わたしは、大なり小なりエコロジーに取り組んでいる人々を、見下す態度をとる人々を嫌悪する。100できないなら0でいるという人より、100できないけど30ならできるという人々のほうがよほど素晴らしいでしょう?

夜に母が今年作った梅干を持ってきてくれた。なんの変哲もない普通の味のものだが、なにせ手作りで化学調味料や添加物が一切入っていない。今の日本ではフツウに買い物をしていればすぐに化学調味料漬けになってしまう。最近驚いたのはツナ缶のツナにも化学調味料で味付けされているということ。それは結局、化学調味料で味付けしなくてはまずくて食べられないような不味いマグロを使用しているということでしょう。企業はこぞってあの手この手で"一瞬口当たりがよくて美味しく感じるもの"を売り出すことに専念しているけれど、"素朴な味だが安全"をウリにした商品は少ない。それはそのまま消費者の声を反映するものなのか。。。わたしはスナック菓子も食べる。でもだからこそ、食事は安心できるものを食べたい。

母の作った梅干を雑穀のごはんと白ゴマと混ぜておにぎりにして紫蘇で巻いて頬張った。こういう素朴な味がいちばんいいね。


Michelina |MAIL