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2011年06月06日(月) |
"Saving Private Ryan" |
久々に重圧に心に響く良い映画と出会った。ハリウッドから生まれた戦争映画なんてどうせアメリカン・スーパーヒーローの話なんじゃないのかと高をくくっていたのだが、まったくもってそんな単純明快なものではなかった。
墓場に佇む一人の老人。その老人を背後で見守る家族。過去を振り返り遠い目をする老人の回想かのように1944年6月6日(たまたまだが今日からちょうど67年前だ。たった67年前。。。)"D-day"と名づけられたアメリカ軍によるノルマンディ上陸作戦シーンが映し出されストーリーが始まる。ロバート・キャパという戦場カメラマンの"Slightly out of focus"という小説に挿入されたD-dayの写真を見たが、まさにその写真から想像したとおりの凄まじい光景だった(キャパの写真も手振れしたものしか残らなかったようだ)。そしてそのシーンのあまりにもの長さが兵士の精神を蝕む長引く戦争を象徴しているようだった。
その数日後、この上陸作戦を生き抜いたキャプテン・ミラー(トム・ハンクス)は新たな任務を命じられる。それは4人兄弟の中で唯一ひとり生存しているであろうジェームズ・ライアンという兵士を探し出して、母親の元に返すことだった。兄弟の中で他が全部戦争でなくなった場合、生き残った一人は家族の元に返すという決まりがあったのかどうかはわからない。この映画の兵士達は祈る時も死ぬ時も家を思うときもいつでも口にするのは"Mama"で、"Dad"はない。一瞬不思議に思ったが、考えてみればDadは戦死して既に天国にいるという人ばかりで、この世で自分の帰りを待っているのはMamaだけなのに違いなかった。キャプテン・ミラーと部下の8人はドイツ軍が潜む危険な地をジェームズ・ライアンたった一人を探すために突き進むことになった。彼らは最初はこの任務を"Fubar(この映画では兵士達の間で作られた言葉あるいはスラング"fucked up beyond all recognition"の意味)だと嘆いていた。わたしもその通りだと賛同して観ていた。道中の銃撃線でひとりふたりと命を落としたところでジェームズ・ライアンを見つけた(ライアンはわたしの愛する"若きマット・デイモン”だったことに驚き胸が高鳴った)。
キャプテン・ミラーがライアンに兄弟の死を知らると悲しそうな表情を見せたものの、彼を連れ戻そうとするとそれを拒否した。
「もし君が死んだらお母さんになんと説明するんだ。悲しむよ。」
と説得するが、
「僕は戦場での兄弟を最後まで見捨てず戦ったと言えば母さんは解ってくれるよ。」
と頑なに拒んだ。
キャプテン・ミラーと部下の心は揺れ動いた。任務を強行に遂行することもできただろうが、自分達も仲間を見捨てて帰ることが果たして正しいのだろうか、もしライアンと共に最後まで戦い、また彼を無事帰還させることができたら、"whole godawful mess(この滅茶苦茶な戦争)"の中でたった一つだけでも良いことをしたと胸を張って故郷に帰れると。当時の日本の兵士を描いた映画などでは決まって「お国のために命をかけて」などと忠誠を誓っているが、口にすることはできなくても実際このアメリカ兵達のようなFubarと思う気持ちはあったのだろうか。キャプテン・ミラーは故郷では国語の教師だった。そんな平凡な一市民がこの地獄絵の中で必死に自分の信念を見失うまいとする。彼らにとって戦争に勝つことは目標ではなかった。たった一つでもライアンを救ったという"人として良いこと"をしたと誇れることが欲しかった。ライアンをただ連れ戻して任務を終えて故郷に帰ることは"Saving"ではない。ライアンは残りの人生を"戦場に兄弟を残して自分だけ帰還してしまった"という罪悪感に苛まれて暮らすことになってしまうのだろう。そして6人はライアンと残って戦う道を選んだ。
ライアンを探しだす道中、この任務に意義がないなどと抗議する部下にキャプテン・ミラーが言った。
「意義のある任務などあるかっ」
彼らにはお国のためにという精神はなく、任務だから仕方ないという姿勢だ。既に彼らはこの戦争に意義などないと悟っていた。この生き地獄で平凡な一市民である自分の良心を必死に守った彼らはわたしの心の中では真のアメリカン・スーパーヒーローだった。