日記っぽいモノ。

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檸々だった私。
2006年03月23日(木)

今日はどういう訳か、
自分が【檸々】だった時の事が、
とてもよく思い出された。


私は子供の頃、家族に虐待されて育った。
その事を家族は、“愛仁の為のしつけ”と言っていた(る)。


【檸々】という人格だった私は、
“愛仁の為のしつけ”の最中によく出ていた。

名前は、末の妹から“姉々”と呼ばれていた事に由来する。
妹が、“姉々”を“ネイネイ”と発音していた事からこの漢字を当て嵌め、
“ねいねい”じゃまんまじゃんと思い、“ねね”と読む事にした。


【檸々】だった私は、
“愛仁の為のしつけ”というのは、
家族の特別な愛情表現だと勘違いしていて、
家族の中で自分だけがそういった目に遭っている事を、
嬉しい事、素晴らしい事だと本気で信じていたから、
そういう風に特別に扱って貰えてありがたいとすら思っていたし、
他の妹達と違う扱いを受けているという事で恍惚さえ覚えていた。


初めての入院をするまでは、【檸々】はしょっちゅう出て来て活動していた。
私の多重人格症状を“親の気を引くための演技”という医師が主治医だった為、
“愛仁の為のしつけ”が毎日繰り返され、他の人格は外に出たがらなかったので、
交代が制御出来た訳では無かったが、【檸々】でいるという事が都合が良かった。


【檸々】だった私は、家族が落ち着いていると不安になったが、
「どうして今日は怒ってくれないの?」と質問するだけで、必ず不安は解消された。
【檸々】にとってはとても過ごしやすい環境だった。


ところが、入院による環境の変化から主人格が交代し、
退院後は主治医が変わり、DIDの診断が下せる医師ではなかったが、
多重人格症状を示唆され、他の人格と連絡を取るよう指示したり、
母とも面接をして、母を変えようとして下さった。

この先生のお陰で、治療の進み具合が好かったと思うし、今は感謝しているけど、
【檸々】だった私には都合が悪く、不安になる事が多くなって、結局外に出る事は減り、
母が本格的に治療を受けるようになった頃には、すっかり外に出なくなり、
外に出ないで生活する人格のグループと意識内で生活するようになった。


DIDの治療が始まってからの【檸々】だった私は、
意識の深い所にいた為、目に見える形では治療に参加していない。
皆で一つの事をと始めたこのサイトの事にも手を付けていない。


そういった訳で、
【檸々】だった私を知っているのは、今の私だけだけど、
今の私は、かつて自分が【檸々】だった事や、
【檸々】だった私から学んだ事を忘れてしまいたくないと思うから、
ここに書いておく事にする。


2004年03月23日(火) 今日も…(涼音)
2003年03月23日(日) 治ったと思ったのに…(ゆり)

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