Leben雑記
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恋愛の社会性――ホモ・セクシュアルを手引きとして
例えば、バナナを売りたい人がいて、バナナを買いたい人がいたとしたら、両者の間には流通が生じるだろう。この例で重要なのは、流通の成立にはお互いの役割が不可欠であるということ。売り手はその買い手を特定して欲しているのではない。売り手はバナナを買いたいと思っている買い手を欲する。それは無論、逆についても言えるだろう。 つまり、その円環は、同じルールに属するそれぞれの役割を担うもの同士の間でのみ作動する、と言えよう。異種のルール同士の間では、円環――流通は、そう簡単には成り立たない。 (明日へ残す言及ポイント:レヴィ・ストロースの問題)
本音を言おう。おおっぴらにはあからさまな差別的発言を控えている常識人たちも、また、もちろん、さして常識も持ち合わせていない者――僕のような――でも、ホモ・セクシャルの問題に関しては多くを語りたがらない。少し余談だが、クラスメートY・Mは、かわいらしくも素直で単純に、ホモ・セクシュアルを「気持ち悪い!」と言っていた。その場の誰が実はそうであるかもわからないのに、彼女は声高に言ったものである。われわれの中に、ホモ・セクシュアルに対する抑えようのない偏見が存在すること、これは押さえておくべき点である。 そして、もしもそれが、単なる無関心の故でないとしたら? 彼らに対し思わず向けていた猜疑の目が、自分とは違う趣向の持ち主に向けられる無知の念とは、異なる源泉から生じるものであるとしたら? 以下のように仮定してみるのは、おそらく興味深い問題へわれわれを導いてくれる。ホモ・セクシュアルは新たに出てきた傾向であるから、それは、“既存の何か”を打ち壊すだろう。なぜなら、新たな勢力は、必ずほかの勢力の只中で生じてくるからである(実在空間の理屈)。既存の何かとは、端的に言って従来どおりの異性愛(ヘテロ・セクシュアル)のカタチであろう。それは個人の自由の問題には抵触しない、なぜなら、ホモ・セクシュアルの人間がどれだけ増えようと、そうでない人には何のかかわりもないはずだからである。とすればこのように言えよう、われわれは、今まで成り立ってきた社会の常識としての異性愛が崩壊するのを嫌っている。
少し視点を転じて、このようにも言えるだろう。すなわち、われわれがほとんど意識せずに担っている性差は、ほとんどの場合において、社会の基盤として存在する。つまりそれは、一般的にジェンダー(社会的性差)として語られているもののことであり、実際この概念に当てはまる現象は非常に多い。 例えばそれが、前回・前々回と書いてきたような、われわれの中にある行動の受動・能動的傾向である。引っ込み思案な女の子がいとおしく見えたり、あるいは、リードしてくれる男性が頼もしく見えたりといったことは、ジェンダーの故である。つまり、それは相手の社会性に対する好意にほかならず、言わば、流通における買い手が売り手を求めるのと同じ原理である。 恋愛の社会性。
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