Leben雑記
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2006年02月11日(土) |
ヘーゲルの「高次の認識」と、実在の条件としての無矛盾 |
とある授業のレポートとして出した、先生へのお手紙。つまりヌルいこと書いても単位あげますよ、という授業に出したレポート。書き上げるまでの所要時間は40分くらい。2006/02/10作成。つまり昨日。
感想です。 ・ヘーゲルの考え方 弁証法というのは、一般的に言われているように、ヘーゲルが自ら正・反・合からなる方法論として、いろいろな論を組み立てるときに使用しているのだと思っていました。ところが講義では、ヘーゲルがむしろ自分の哲学の全体の構想として弁証法的運動を想定していて、それによって哲学を全体性へと至らせようと考えているのが明確に示されていたように思います。 講義後半でやった、懐疑論と、カントの二律背反のような論をまとめて、懐疑論と呼んだ上で、それらが持つ命題とその反対命題(例えば、「教師である」と「生徒である」)の両方を同時に成立させ(例えば、「教師でありかつ生徒である」)、より高次の認識を得ようとする思考が、ヘーゲルの弁証法の例なのだと思います。
・疑問に感じたところ ただ、少し疑問なのは、この例での「教師でありかつ生徒である」は、字義通りに受け取って、教師と生徒を時間差をつけて成立させるなどといった方法を無視して考えた場合、明らかに矛盾なのですが、そこらへんはどうなのでしょう。無矛盾性が実在するための条件であるとすれば、このときヘーゲルが高次の認識と呼ぶそれは、決して実現されません。それは概念としてのみ存在する、とは言えますが、しかし、人の中に、人の考えとしては存在できないと思います。 なぜか。まず、無矛盾性が実在するための条件であると言うのは、矛盾の定義「相反する二つの事柄が同時に成り立つこと」から考えて当然のことだと思います。物質として存在するためには、必ず、無矛盾でなければならないと思います。例えば、端的に「ある物質Aがそこにある」と「ある物質Aがそこにない」は、同時に成り立ちません。同時に成り立つためには、二つの文章が示す「A」あるいは「そこ」という言葉の意味が双方で異なる必要があります。それはすでに命題を変えたこととイコールです。なので、繰り返しになりますが実在の条件として無矛盾が絶対です。 そしてつぎに、これが人の考えとしては存在できないのはなぜか、という点についてですが、これは少し精緻な表現をする必要があります。矛盾は存在可能です。たとえば、相反する二つの命題をただ紙に書いてみれば、矛盾は生じます。ただし、今のうちに踏み込んで言ってしまうと、矛盾とは無意味性なので、この並べられた二つの命題はなんら意味をもたなくなると思います。 思考はすべからく、アタマから外部へと移した時点で、時間と空間の属性を失うように思います。それゆえ、お互いに矛盾する二つの命題はそこに並列して並べることができるのです。時間と空間の属性を維持するような場にある限りにおいて、矛盾は不可能です。そのような場とは、つまりは人の中、すなわち思考・感情・心です。あるいは単純に、物質の世界です。たとえば、「怒っている」と「怒っていない」は、同一の人の中で同時に成り立つことがありません。例えば、「Aがある」と「Aがない」は同一の時間と空間を前提する限りにおいて成り立つことがありません。
以上のことから、ヘーゲルの言う「高次の認識」が、有意味な概念として考えることができるのかどうかが、いまいち僕にはわかりません。それが概念として考えることができるように感じるのは、概念化という思考法の持つタマネギ構造によるもの――すなわち、捉え直し――によって、無意味な概念をさらに概念化しているからであるように思えて仕方がないのです。 至らない考え&練ってない文章ですいません。これで終わります。
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