Leben雑記
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2006年01月19日(木) 本能のままに?

 一例に、クラスメートM・HがHP上で公開していた考え方。たぶんこんな感じ。
 人間が、その行動においてより本能的であれば、たとえば人間関係に生じるようなゴタゴタはなくなるだろう。なぜなら、みよ、動物は総体として調和的である。たとえばメスをめぐるオス同士の争いにおいて、どちらか一方が死ぬまで争うことはほぼない。どちらかが強いことがお互いに示されれば、その時点で争いは止む。つまり、このような動物のコミュニティが持つ調和は、本能の制御のおかげと言って良い。
 人間は本能をもつが、一方で理性を持つ。理性は、時に戦争のような残虐さを見せる。戦争において殺人は正当化され、オフィシャルな出来事となる。
 本能に従って生きてみれば、その「考えすぎる」ことの狂気から逃れることができるだろう。人間が元来持っていた本能による調和は、理性によって掻き乱される。といっても、ここで言う本能とは、「感じるままに」ということである。
 ビバ! フィーリング!

 ……そうかなぁ?
 これは昨日書いた言及すべき論点のひとつと関連して挙げてみたけど、やっぱりこういった考え方が正しいとは思えない。根拠は別の機会に示そう。…なんか延ばしてばかりだけど。
 で、間違っていることを指摘できたとしたら、開き直って「別に生き方なんていいじゃん、人それぞれで。」とみんなは言うだろうか? もちろん、もしもそういわれたらこちらとしては何も返す言葉がない。それは、たとえば数学の問題を間違った解き方をしている人がいたとき、彼が間違っていることは僕には何の関係もないのと同じように、である。つまり、返す言葉がないのは、どちらが正しいかが決定できないからではなくて――正確に言えば、この正しさは科学的統計的な暫定的正しさのことだが――、単純に、他人が馬鹿でも僕に関係がないという意味においてである。
 なるほど……。
 ではいまの問題は、向上心だ。自身をより良くしようと考えている、という前提を共有しない者には、そもそも僕の主張は通らない。僕が主張していることは常に自分自身の規律、つまり道徳性の問題だから。ネガティヴな意味など微塵もない、自己批判。

 昨日の論点に付け加えること。動機の問題。意識していなくてはならないとか、自己批判だとか。そういった運動自体を支える原動力としての、向上心。


 ちなみに僕はM・Hが友達として大好きだ。悪く書いてるように見えるけど、そんなことはないよ。


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