K馬日記
サリュウラヴケーマ号とバリトンサックスの『ウエエ、ウエエ』なわだち
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2010年10月21日(木) 嫉妬や羨望、後悔、そして絶望。

おお、今日も更新です!※夜中2時

最近自分の知識のなさに絶望してばかりのただけーまです。
カバネルとかジェロームとか・・・全然知りませんでした。
恥ずかしすぎます。

結局あれなんだな、絵画の流れを本で勉強した「つもり」になっていただけであって。
しょせんそのレベルは高校の知識程度だったと、そういうわけなのかもしれない。
とても学術的な知識とはいえない。
ただの、ちょっと大人な常識程度に過ぎなかったということなんだよ。

いいかい、20世紀に入ってから。
いや、印象派が出始めた頃だから19世紀後半か。
そこから、完全に絵画の主流は、反アカデミスムと化す。
そこで、反アカデミスム側の画家や絵を知っているのは、大人として大学生として、もはや常識のレベルってことだ。
その当時のアカデミスムの現状を知った上でなお、反アカデミスム、要するに印象派以降の画家・作品を知っているということが大事なのであって。
そこが大学生の勉強というか、やはり一般的な教養を越えた範囲になるんだろう。

趣味としての絵画ではなく、学問としての絵画。
ぼくはしょせん趣味のレベルにとどまっていたということだよ、ワトソンくん。
もちろん学問としての絵画は趣味の延長上にあるんだけど。
趣味が究極に至るのは絵画の書き手か、鑑賞家(要するに美術学者)に変貌するんだな。
芸術的感性の人なら表現側になるし、ない人ならうんちく側に回る。
ぼくは絵の才能が皆無な人間だから、結局はうんちく側に逃げてしまうわけだけども。
それでもやっぱり上手な絵を描くと切望するときはあるし。
それができないとわかっている今、ぼくはとてつもない嫉妬に駆られることもある。
それは音楽に関しても同じで。
すごく憧れは強いのに、実際に演奏してみたときの自分の才能、というかセンスのなさに絶望したり。

だからプロの画家・奏者としてそうした芸術表象に関わりたいと願う(憧れる)こともあるのだけれど。
そこはもう大人だし、自分の選んだ道だし、語る側として関わりたいなと思っていたのだけれど。
その語る知識さえぼくには圧倒的に欠如しているのです。

窮してしまった。

知識を増やしたい。
圧倒的な知識量をぼくにください。


東京大学では劣等感を感じてばかりいます。


田舎で少し勉学に自信があったぼくの小さなプライドは入学当初から既にくじかれてはいたのだけれど。
それでも本気を出せば、とは心のどこかで思っていた。
本気を出すのが遅かった。
やりたいことを決めるのが遅かった。
いままでの自分は何をしていたんだ。

何が欠如しているのだろう。
普通に教養がないだけなのだろうか。
絵画の流れは本格的に追おう。
音楽の流れも。こちらは今までずっとサボってきたかも。
後は宗教的知識も足りない。
映画史も結局大まかな、上で述べたような趣味程度しか理解していない。
とにかくあらゆる系譜が欲しいのかなぼくは。


本を買おう。

変な決意。
しかし金を使うのが悔やまれ。

寝る・・・※2時半


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