「そうだ、今日はハロウィンですから、パーティをしましょう」 朝っぱらからやたら明るい声を、今村は丁重に無視して、玄関のドアを閉めた。 防音性にすぐれた高級マンションのドアはまったく優秀で、廊下に出てしまえば中でおそらく「ああひどいっ、今村さん、どうして無視するんですか今村さん!」と大げさに打ちのめされたふうに叫んでいるであろう祥人の声は聞こえなくなった。 ――などという出勤前の一幕をすっかり忘却の彼方へ押しやって、いつもどおりせっせと仕事に励んでいた今村ではあるが、帰宅のために電車に乗り込んでからふとそれを思い出した。 (何か、嫌な予感がするな) そもそも自分がどれだけ何を言っても、何ひとつ聞く耳を持たないあの少年のことだ。 毎朝毎朝、顔を合わせるたびに「そのわけのわからん格好はやめろ」とこれまでに多分千回は言っているのに、未だ完璧なメイドのコスチュームを辞めないほどだ。 最初に祥人が今村のマンションに『押しかけて』きてからすでに数ヵ月、今では「メイドの格好はやめろ」という言葉も、すっかり挨拶代わりになってきている。 慣れてしまった自分が、今村には恐ろしい。 今日も、家に戻ればろくでもない状況が待っているだろうということは容易に予測できたが、すでに帰宅の途についてしまったから、今さら会社に戻って残業のふりをするのも面倒臭い。 こんな日に限って、日マ連からの呼び出しもなかった。呼び出して欲しくない時には好き放題呼び出すくせに、呼んで欲しい時に何の依頼もないなんて、役に立たないことこの上ない。 (まあ、俺の家だ、俺が出てくこともないだろう) そうあきらめをつけて、今村は七過ぎには自宅マンションへと帰り着いた。 エレベータで最上階に昇り、ポケットから鍵を取り出しつつ玄関前に辿り着く。 そして玄関のドアを開けた瞬間、 「おっかえりなさーい!」 今村は光の速さでそのドアを叩き閉めた。ゴツ、とかなりいい手応えがした。 「……」 とても恐ろしいものを見た。 十何年前のあの最悪の時間から、もう怖いものなど自分にはないのだと思っていた今村は、その自分を恐怖に突き落とす存在が今この家の中にいることに、愕然とした。 「もーひどいなあ、何で急にしめるんですか、顔打ちましたよぅ」 かわいこぶって拗ねた声が聞こえた。ドアが少し開いている。今村は全力でそのドアに体当たりして、もう一度それを閉めようとした。 「どうしたんですか今村さん、どうして中に入って来ないんですか今村さん、俺、せっかくハロウィンだから腕ふるって、パーティの準備したんですよ!」 「頼む、おまえは生まれた星に帰ってくれ! っていうか帰れ!」 今村の声は半ば悲鳴になった。祥人は今村が死にものぐるいで閉めようとするドアを、細い体のどこからそんな力を出しているのか、やすやすと押し返した。 そして現れるのは、いつものメイド姿ではなく、オレンジ色のリボンがついた黒いとんがり帽子に黒いロングのワンピース。袖口と襟、裾にやはりオレンジ色のベルベット素材が三角形であしらわれている。三角形の先端には、ご丁寧に小さなカボチャの飾りがひとつずつついている。 片手にほうき、帽子の下は、なぜかおさげになった赤毛のウイッグがぶら下がっていた。多分魔女のつもりなのだろう。 「ほら、よく見て下さいよ、すっごいかわいいでしょ?」 祥人がくるくるまわると、裾はすぼまったまま、スカートが脹らむ。黒い布の下からオレンジ色の布が盛り上がり、まるでカボチャのようだ…と今村は途方に暮れた。 「ネットで調べて買ったんです、これ以外にもネコの着ぐるみとか、カボチャ型のウイッグとか、いろいろ買っちゃった」 男子高校生の、魔女コスプレ。 細見でまだ幾分頼りないとはいえ、男の骨格をした十七歳の、ふんわりスカート。 「……いかん、涙出てきた」 「大丈夫、俺が慰めてあげますよ」 今村が振り上げた片手に、突如として巨大なハリセンが現れる。今村はそれを握りしめ、手加減なく、力一杯、祥人の脳天めがけて振り下ろした。 ウイッグごと帽子が吹っ飛ぶ。 「痛……ッ、本気でぶつことないじゃないですか!」 咄嗟に抗議しかけてから、今村の手を見た祥人がきらきらと瞳を輝かせた。 「すごい、さすが今村さん、完璧なハリセンです! 今のちゃんと魔法でしたよね、後ろに隠し持ってた現物じゃないですよね!」 今村が後ろに向かって投げ捨てたハリセンが、今までそこに存在していたことが夢のように、現れた時と同じく一瞬にして消える。 「つまらんものを呼び出してしまった……」 祥人を押しのけ今村が玄関に入り、靴を脱ぎ捨てて廊下を進むと、帽子を拾った祥人が後からついてくる。 「あ、夕飯まだですよね、今日はかぼちゃ料理フルコースですよ」 「で、今日はいくつのかぼちゃを生ゴミに変えたんだ」 「全部食べられますよ」 「わかった、じゃあ質問を変える、いくつかぼちゃを使ったって?」 「七個です」 「七個分の生ゴミか……おまえの方がいっそ魔法使いだぞ、七個の貴重なかぼちゃをわずか数時間でゴミにできる」 「ひっどいなあ、見てから言ってくださいよう」 「臭いでわかるんだよ!」 今村が勢いよくダイニングのドアを開けると、廊下にも漂っていた、焦げ臭さと異様な甘さとその他得体の知れない科学的な臭いの入り交じった強烈な熱気が吹き出してくる。 今村は思わず「うっ」と呻いて口許を手で押さえた。 「かぼちゃスープと、かぼちゃサラダと、かぼちゃの炊き込みごはんと、かぼちゃのしょうゆの煮付けと、かぼちゃの天ぷらと、かぼちゃプリンと、かぼちゃのパイと、かぼちゃ入りおでんです」 ダイニングテーブルには、かつてはかぼちゃであったらしい物体の、無惨な姿がこれでもかと並べてあった。 部屋の中は照明が落とされ、あちこちにジャック・オー・ランタンが並べられて、その中でろうそくの光が煌々と輝いている。 気が遠くなりそうに幻想的な光景だった。 「……今日も出前にするか」 「えー、見た目は悪いけど、結構、おいしいですよ」 「ならおまえが全部喰え、俺はまだ死にたくないと何度言ったらわかるんだ」 ぶうぶうと文句を並べ立てる祥人を無視して、今村は自分の寝室へと向かった。 そのドアを開け、へなへなと床に座り込みそうになる。 寝室の中も、見事にやってくれた。大小のジャック・オー・ランタンが並び、天井からはかぼちゃや魔女やネコや白いおばけのオーナメントが恐ろしい数ぶら下がっている。 ベッドの上には、なぜか竹箒の束が転がっていた。 「どこで寝ろっていうんだ……」 「今村さん、せっかくだから、今村さんも仮装しましょうよ!」 廊下で脱力している今村に、祥人のまた無駄に明るい声がかけられた。 ぐったりしたまま振り返ると、祥人がネコの着ぐるみを抱いて立っている。それを着ろというつもりらしい。 「たとえ地球が滅亡したってお断りだ」 「もー、照れ屋さんなんだから」 もう一回殴ったろうか、と思っていると、祥人が着ぐるみの影からさっと素早く何かを出して、今村の頭にかぶせた。 ネコミミのカチューシャだった。 「素敵……」 祥人はうっとりと両手を組み合わせ、今村にみとれている。 今村は何だかどうでもよくなってきた。 「しっぽもあるんですよ、ベルトについててね、あとひげも」 今村が両手で自分の頭に乗ったネコミミをむしり取ろうとするより早く、祥人がその手をがしっと掴んだ。 「ダメです、それ外したら、俺この格好のまま外に出て、近所中練り歩いて今村さんに強要されておかしをもらいに来ましたって言いふらしますよ」 「どういう脅迫だ、それは!」 「耳だけでいいですから。本当はひげとしっぽも欲しいけど」 「何で俺がこんなもんを」 「いいじゃないですか、お祭りなんだから。さらっと楽しむのが大人じゃないですか」 どうせ祥人は、自分の言葉になんて耳を貸さない。 今村は改めていろいろなことを諦め、ネコミミにかけようとした手を下ろした。 「風呂に入るまでだぞ」 「はーい」 やたら嬉しそうな顔で、祥人が頷いた。 「いい年した男にこんなもんつけて、何が楽しいっていうんだ……」 呟きつつ、今村はまっすぐバスルームに向かった。 「いい年した人がやるから、いいんじゃないですか」 祥人の返事は、まったく理解できなかったので、聞こえないふりをした。 とにかく風呂に入れば、このばかげた飾りは取れるのだ。 そう思ってバスルームに向いながら、今村はひしひしと嫌な予感に包まれ出した。 バスルームの方からも、何だかやけに甘い香りがするのだ。 おそるおそるそのドアを開けた今村は、今度こそがっくりとその場に膝をついた。 「あ、お風呂も今日はスペシャルですよ、スペシャルパンプキン風呂」 脳天気な祥人の声に、両手も床についてしまう。 今村のパラダイス、心のよりどころ、愛するバスルームの浴槽の中はどろどろのオレンジ色に侵されていた。 「……お……おまえ……風呂だけは手をつけるなとあれだけ……!」 何をやったらこんなにおぞましくぬめった水が発生するのか。 うちひしがれる今村の耳に、ドアチャイムの音が響いた。 「はぁい」 「っ、待て、その格好で出るなとあれほど」 今村は、気がふれたんじゃないかと思うような格好の祥人を外に出さないため、急いで立ち上がり、玄関まで走った。すでにドアを開いている祥人を力ずくでそこから引きはがし、ドアの外を見てから、もうこれ以上どうすれば脱力の感情を表せばいいのかわからない、絶望的な気分になった。 薄暗い夜に、青白い顔をぼんやりと浮かばせた髪の長い男が、ぼろぼろの布きれを身にまとい、手にジャック・オー・ランタンを乗せて無表情に佇んでいる。 「とりっく、おあ、とりーと」 そして低く感情のない声で、たどたどしく、英語らしきものを喋った。 「……」 今村はそれにはコメントせず、スーツのポケットから携帯電話を取り出してボタンを押した。 『はい、櫻井』 コール一回で相手の声が聞こえる。 「あーすーまー、わけわからんことに式神使って遊ぶんじゃない!」 今村の第一声を聞いて、電話の向こうで櫻井が笑い声をたてた。 『いいじゃないか、お祭りなんだから』 「あんたまであのバカメイドみたいなこと言うんじゃねえよ」 『本当は俺が直接行きたかったんだけど、あいにく忙しくてな。正一にも仮装のひとつもしてもらおうって、服も用意してたのに――』 「……あんたと水掛、実は思考回路が似てるよな……」 『クリスマスには直接会いたいもんだな。それじゃ、また近々連絡するから』 言いたいことだけ言うと、櫻井はすぐに電話を切ってしまった。 電話の向こうの様子からして、本当に相当忙しいようではあったが、だったらこんな仕込みをわざわざせずに大人しく働いていればいいのだ――と今村が考えていると、ボロ切れをまとった櫻井の式神がゆらりと側に近づいてきた。 片手に、デジタルカメラを持っている。 「……何やってんだ」 「主人の命で、写真を撮ってこいと」 男は今村にジャック・オー・ランタンを持たせ、その隣に並ぶと素早くカメラのシャッターを切った。 (ネコミミだ!) かぼちゃを持って幽霊の仮装をした本物の人外と写真を撮るのはまだしも、そういえばまだネコミミをつけたままだった。 「待て、今のなし!」 慌ててカメラを取り上げようとした今村の手をするりと避け、男は廊下に逃げた。 「よくお似合いでいらっしゃいます」 今村には捨て台詞にしか聞こえない言葉を残し、男は宵闇に溶けるように、みるみる姿を消していった。 「あ、一緒に写っちゃった」 そして今まで存在を忘れるほど大人しくしていた祥人は、さりげなく今村と男の間からカメラに写り込んでいたらしく、ひとりはしゃいでいる。 「さっきの写真、櫻井さんに言ったらわけてくれますかね。今村さん、あとでちゃんとお願いしておいて下さいね」 今村には、お断りだ、という言葉を言う気力もなかった。 どうしてまじめに働いて帰ってきたのに、自分の家だというのに、こんなにむごい仕打ちを受けなければいけないのか。 「さっ、こんなところで突っ立ってないで、早くパーティを始めましょう!」 これまでの経緯を根底から覆す発言を、祥人がうきうきと口にする。 「日頃のストレスなんて忘れて、ぱーっと楽しみましょう」 誰がそのストレスを作っているのか、今村は手にしたかぼちゃをまたその頭にぶつけてやろうかと思い詰めたが、しかし祥人に悪意がないのを悟ってとりあえずこらえた。 (まあ……しばらくつきあってやれば、落ち着くのか……) かぼちゃの残骸料理を食べるふりをして、仮装のひとつも褒めてやれば、祥人は満足して自分を解放してくれるだろう。 そう打算を浮かべて、祥人に引きずられるように『パーティ会場』に戻りながら、今村はすっかりこの少年のペースに巻き込まれきった自分の生活を思って気が遠くなってきた。 今村の嘆きをよそに、祥人のはしゃぎ声を響かせ、ハロウィンの夜は更けていく――
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