月に舞う桜
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2020年07月03日(金) |
【本】村田沙耶香『地球星人』 |
村田沙耶香『地球星人』(新潮社)の感想メモ。
至言多し。 全部引用するわけにいかないので、一つだけ。
「私はいつまで生き延びればいいのだろう。いつか、生き延びなくても生きていられるようになるのだろうか。」
そう、生き延びる(survive)と生きる(live)は別ものだ。そしてこれは、サヴァイヴの物語だ。
前作『コンビニ人間』よりもさらに、この社会にある暴力性や加害性、洗脳(呪い)や圧力に踏み込んでいる。特に、女性が受けるそれらについて。 労働や生殖や、その他諸々の抑圧に生き難さを感じ世界に馴染めずにいる人にお勧めだけど、人によってはフラッシュバックが起きる可能性があるので、要注意。
安全を脅かされ続けたとき、心が壊れないようにするため、あるいは壊れた心を守るため、子どもは子どもなりのやり方で生き延びる方法を編み出す。魔法少女になったり、自分は異星人だと信じたり、ヒステリーを起こしたり、ただ声なき命令に従ったり。 けれど、大人になるにつれ、それらの方法のいくつかは使えなくなってしまう。生き延びるためには、別の方法が必要になる。
私は子どもの頃、感情を切る術を身につけていた。とても嫌なことがあると感情を切り、心が動かないようにしていた。でも、その“魔法”は、成長するにつれて使えなくなった。
主人公・奈月に打ち明け話をされた人間の反応がことごとく、テンプレだ。あまりにテンプレなので、陳腐に思えるほど。 だが、現実の我々地球星人は、たしかに陳腐なテンプレを生きている。だから、彼ら(打ち明けた相手)の言葉は、陳腐に、鋭く、生々しく、迫ってくる。現実を突きつけ、えぐってくる。彼らの言葉を目で追うと、自分が言われているかのように、苦しい。
奈月、由宇、智臣の、工場の“洗脳”に対するスタンスが三者三様で、対比がはっきりしていて良い。 私もポハピピンポボピア星人なのかもしれない。でも、彼ら三人の誰とも違う。感情を切るという“魔法”が使えなくなった私は、いまどうやって生き延びているのだろう。よく分からない。
私は、生きているのではなく、いまだに生き延びているんだなあと思う。
小説から少し離れて、現実に立ち返る。 もし、私たちが働く道具、生殖の道具なのだとして、例えば私のような障害者は、そういった道具と見なされているのだろうか。いや、世界=工場にとって価値ある道具としてカウントされていないのではないだろうか。 だから、異性間恋愛と生殖が推奨される一方で、強制不妊手術が行われた。 労働と生殖の道具と見なされていない人間の一部には、“洗脳”と並行して、道具となるための矯正が試みられる。が、矯正できなかった者は、工場の鉄くずとして、うっちゃっておかれる。 それはある意味“洗脳”を免れたとも言えるが、本来「免れる」にある好ましさはないし、道具と見なされない人間には、道具である人間に対するのとは別の“洗脳”が施される。
人間が道具である世界で、道具とは見なされない存在があること。しかもそれは自由や特権を意味せず、別の“洗脳”が発動すること。それを、著者(村田沙耶香)だったらどんなふうに物語にするのだろうかと、興味が湧いた。
現実世界の話をもう一つ。 ときどき、子が親を殺す事件が起きる。 殺人は許されない。けれど、親から安全を脅かされ続けていた子が親を殺したとしたら、誰がいったい、その殺人犯を一分のためらいや後ろめたさなしに責めることができるだろう。 それは殺人であると同時に、(タイムラグのある)正当防衛ではないのか。 ときどき考えるそれを、思い出した。 (ちなみに、『地球星人』に、子による親殺しは出てこない)
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