月に舞う桜
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小説を読んでいると、普段は思い出しもしない記憶がふいに甦ることがある。
小学校に上がる前、まだ4歳か5歳の頃、母が運転免許を取った。母が教習所に行っている間、私は日頃からお世話になっている近所の家に預けられていた。 私はそこで、塗り絵したり本を読んだり、おやつを食べさせてもらったりしていた。ときどき、ピアノ(オルガンだったかな?)を弾かせてもらうこともあった。ピアノだかオルガンだかを弾くと言っても、思いのままに鍵盤を叩くだけだけれど。うちには卓上の子ども向けキーボードしかなく、本格的なピアノもオルガンもなかったので、私はご近所宅の立派なそれを弾けることが嬉しかった。
預けられていたお宅には、何色かセットの、お絵かき用マーカーもあった。ときどき、それも使わせてもらえた。私はそのお絵かきペンセットが羨ましかった。私にくれないかなあと思っていた。 欲しいと口にこそ出さなかったけれど、「いいなー」くらいは言ったのかもしれない。その家のおばちゃんは、私の気持ちを察したようで、でも、「これは子どもたちが大切にしているから、あげられないの」と言った。その家には、私より年上の男の子が二人いた。 私は心底残念だったけれど、仕方なく諦めた。どうしても欲しいと駄々をこねたら、二度とペンを使わせてもらえないような気がした。
あのとき、おばちゃんがやさしく、けれどもはっきりと断ってくれてよかったなあと思う。 もしも、あのとき、おばちゃんが渋々譲ってくれたりしていたら、私は、欲しいものは何でも手に入ると思い込んでしまったかもしれない。その後、快く預かってもらえなくなったかもしれない。 なぜだか急にそのときのことを思い出して、断ってくれたことに今さらながら感謝した。
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