月に舞う桜
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2020年01月09日(木) |
「障害受容」って……? |
私は障害当事者で、かつては支援者でもあった。 当時の職場では、利用者さんの障害受容度の低さをその人の課題と見なしていた。「まずは障害を受容できるようにならないと、先へ進めない」みたいな。 私も立場上、そこに乗っかってしまっていた。でも、その一方で、なぜ障害を受容しないといけないんだろう? と悶々としてもいた。 障害当事者の立場と支援者の立場の間で、引き裂かれていたあの頃。
私は、自分の障害を受容していないと、ずっと思ってきた。そして、別にそれでもいいじゃんと思っていた。 でも、よく考えてみると、私が受容していないのは自分の障害そのものではなく、この障害を取り巻く世の中なのではないか? この世の中を受容できないのは、ある意味当然のことなのではないか? 最近、そう思い始めている。
で、支援機関などで「あの人は障害受容できていない」などと言うとき、実は障害そのものの受容ではなく、被支援者がこの社会を受容しているかどうかが問われているのではないか、と思ったりもする(支援者にその自覚はないだろうけれど)。 だとしたら、怖いことだ。
◆「障害受容」という言葉の身勝手さ(野口晃菜さんのnote) https://note.com/akinaln/n/n2eec93f9f642
「その言葉(「あの保護者は、あの人は、障害受容ができていない」という言葉)は、まるで『障害』を『受け入れる』ことのみが善であること、そして『受け入れ』ていないことはその人が悪いかのような、そして『受け入れ』ないと、支援ができないような、そんな印象を与える。上から目線極まりない。そもそも何をもって『受け入れている』と定義するのだろう?どう評価するの?」
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