月に舞う桜
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作家の田口ランディさんが、田代まさし氏と一緒に依存症関連のイベントに出演したときのことをブログとFacebookに書いている。 (ランディさんの父親は、アルコール依存症だったそうだ)
・ブログ https://runday.exblog.jp/30561877/
・Facebook https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=561341268004088&id=100023846584201
この中で、ランディさんは「依存症というのはものすごく淋しい人の病気だ」と述べている。
「田代さんの淋しさは、隣にいてもしんしんと伝わってきた その切羽詰まった感じも……。」
とも。
以前、Toshlが淋しさについて語っていたことがある。それは、「いま淋しい」ということではなくて、淋しい気持ちがなくなったことについて。 あぁ、そうか、この人はきっと、笑っていても、歌っていても、心のどこかがずっと淋しい時期があったんだな……と、切なくなった。
それまで、私は「淋しさ」というものについてあまり考えてこなかった。 淋しさを感じなくて済む人生を送ってきたからではなく、「淋しい」はとてもやりきれなくなる感情だということを分かっているから、考えることを忌避してきたのだと思う。
身近なのは、「淋しさ」よりも「孤独」だった。 両者は似ているようでいて、私の中では明確に異なる。 「孤独」なら、よく知っている。 自分が自分であるということは、とても孤独なことだ。 それは、ときにつらいことでもあるけれど、生きていることの根源でもある。「孤独」は、特別なことではない。 それに、悪いことばかりでもない。孤独に意識を向けることで、自分の生がはっきりとした輪郭を持って浮かび上がってくるような、自分の存在が際立つような感覚もある。
でも、「淋しさ」は違う。 淋しいと、心が折れそうになるし、暗闇に引きずり込まれそうになる。 だから、淋しいという感情に焦点を当てることは危険だ、と私は無意識に感じ取っていたのかもしれない。
Toshlが「淋しい気持ちがなくなった」と言うのを聴いたあと、しばらく「淋しい」という言葉が頭から離れなかった。 それで、ふと、私はもしかすると孤独なのではなくて、本当は淋しいのかもしれないと思った。 それは、かなしいことだった。淋しさに縛られて、どこにも行けなくなるような、感じ。
淋しさを自覚することは、とてもつらいことだ。 だから、その先に何らかの依存が起きて、そこから抜けられなくなってしまうことは、分かる気がする。誰かだったり、薬物だったり、アルコールだったり、セックスだったり、別の何らかの行動だったり。
ランディさんの文章がとても良いので、ぜひ読んでみてください。 一緒に出演したイベントで、田代氏は、お客さんを笑わせようとネタ提供に必死だったそうだ。 自分の存在意義みたいなところについて、認知行動療法的な治療がうまくいっていなかったのかなあ。
みんな、淋しくないといいのに。 でも、ランディさんがイベントで言った「依存症の家族に巻き込まれないで自分の人生を生きることだ、巻き込まれたらいかん、距離を持つのも大事だ」も、たぶんその通りなんだろう。
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