月に舞う桜

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2019年07月09日(火) 『新聞記者』

映画『新聞記者』を観た。

政治的文脈で語られることが多い映画だけど、それで逆に敬遠する人もいるかもしれないので、エンタメとしての見どころも言っておきたい。
前半は現実をなぞっているだけ(それがこの映画のポイントだが)という印象だけど、大学新設の真相に迫る後半がぜん面白くなる。

大学新設の真相に迫る過程がドキドキ、ハラハラ。そして真相が明らかになったとき、心の中で「来たーっ!これかあ!」と叫んだ。
日本社会の現実を突きつける重苦しさの中で、あの真相にはエンタメ性が光っている。『相棒』み、ある。
現実と虚構がたえず入り混じり、観ているうちに現実と虚構の境目が曖昧になっていくので、「加計学園の真の姿って、これなの!?……いや、これはいくら何でもフィクションよね」と一瞬混乱(笑)。

宮崎あおいと満島ひかりにオファーしたが断られたとの真偽不明な情報があるけど、日本でイメージが付きすぎていないシム・ウンギョンで良かったと思う。
宮崎、満島がダメってことではなく、有名な日本人女優がやると女優の名前がちらついて虚構感が強まったかも。
女優オーラを消したシム・ウンギョンの演技(表情、佇まい、話し方)がとても良かった。強いバリキャリ風情ではなく、普通の、いち新聞記者のリアリティ。上手いが時々たどたどしい日本語も、リアリティ強化という良いほうに転んでいたと感じた。

松坂桃李の、揺れ動く苦悩の演技も良かったのだが、田中哲司がすごくいい! 表情も感情も色もない。でも、決して無機質という感じではない。きっとそれが多田という人間であり、あの組織に馴染みきってしまった人間の特徴なのかもしれないと思わせる。

映画の初っ端から最後まで一貫した突っ込みどころは「みんな、仕事するときはちゃんと電気付けよう!」である。
特に、松坂桃李が勤務する内閣情報調査室(略して内調)の部屋は薄暗く、モノクロではないのに色がない。
あの部屋を見て思い出したことがある。
浦沢直樹の漫画『20世紀少年』で、カーテンを閉め切って細菌開発していたヤマネに、キリコが言う。
「こんなところに閉じこもってないで外を見なさい!」
そしてキリコがカーテンを開けて光を入れ、ヤマネは目が覚めたのだった。

(そう言えば、私は最近、現政権を見ていると ”ともだち” を連想することが多い。)

日本社会の現実をなぞり、容赦なく突きつけるこの映画で、核となるのは特区での大学新設計画の謎。
題材は現実の焼き直しだが、その真相は完全なフィクション。なぜそこだけフィクション性が高いのか。
それは、あれがある種の予言だからではないか。
上に「大学新設の真相はエンタメ性が光っている」と書いたけれど、あれは映画のエンタメ性確保と同時に、警告的予言の意味合いがあるのかもしれない。
冒頭から現実の問題を描き、境目なく虚構に移行する。現実と地続きの未来はあれかもしれない、という警告。

現政権の問題を描いているのに政治家が一人も出てこないのはなぜか。
一つは、欺瞞を働く政治家はいつもスクリーンの外にいて、正しく報道されなければ、私たちに彼らの顔は見えない。存在はちらつくが、隠されて見えない。そして、官僚が切り捨てられて終わる。
もう一つは、現政権の暗部としてだけでなく、現政権のずっと前から脈々と続く日本社会の本質的問題として突きつけるためではないか。私たちの意識と社会構造を変えない限り、いくら政権が替わっても本質は変えられないのだ、と。

羊の目が黒く塗りつぶされているのはなぜか。
あの羊は、羊を送ってきた人物そのものなのか。それとも、目を塞がれ、あるいは自ら目をつぶっている私たちのことなのか。

それにしても、家族がいるというのは、厄介なことだ。家族の存在は、支えになることも、正しい道を選ぶよう背中を押してくれることもある。けれど、家族は足枷でもある。ときとして、正しさを貫くのに邪魔になる足枷。


桜井弓月 |TwitterFacebook


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