月に舞う桜

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2018年12月08日(土) 強烈な共感と救いの一冊

少し前に、タイトルに惹かれて立命館大学教授・立岩真也先生(社会学)の『弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術』(青土社、2000年)を読んだ。

自己決定権を主張する立場の者が安楽死を否定する論理に共感する一方で、私自身は、自己決定を主張すると同時に安楽死の合法化を望む気持ちは変わらない。
ただ、私個人が安楽死の合法化を望むことと、今の日本社会で安楽死が合法化されても良いかどうかは別問題であるという認識が強まった。

私の頭では理解が及ばなかった箇所もあるが、強烈な共感を覚える一文が突然ひょいっと出てきたりする。閃光のように、あるいは救いのように。

例えば

「また例えば「自立の助長」が語られる。こんなことについてさえ間違える人がいるのだが、これは本人に委ねているのではなくて、生のあり方を特定の方向に導こうとするものである。(中略)
(投稿者註:経済的な自立や自己管理が)自己防衛の手段として必要であることと、それを存在意義として語ること、人間が人間であることの資格であるとすることは異なる。しかし、この社会にあってそれは第一のものに据えられてしまう。(中略)
分配、社会的支出を引き出そうとする側にとっても、その支出が意義のあることを言おうとしてしまう。「よいこと」が行われると言わないと、なかなか予算をとってくることはできない。」(p308)

「その時々の善意によってしか発動しない贈与を受けることによって暮さなければならないこと、その人の善意を発動させ、その人の善意に応答しながら暮らさなければならないことは――与える側、少なくとも受け取る側にいない人たちは時にそのことに気が付かないのだが――愉快なことではない。」(p326)

特に、引用した326ページの一文は、まさにその通りである。
障害当事者として様々な介助や配慮や支援を必要とするとき、私はそれらを誰かの善意として享受しなければならないのだろうか。介助や配慮や支援を必要とする者は、いつでも他人の善意に応答しなければならないのだろうか。
そもそも、社会の中で一人一人の権利を守る何がしかが行われるとき、それを普通、「善意」とは呼ばないのではないか。
人間の権利を守れるのは、個々の善意ではなく社会のシステムであり構造である。

これは東大准教授・熊谷晋一郎先生の講演を聴いたときにも感じたことだけれど、学問の世界で既に語られていることや乗り越えられていることが一般社会に普及するまでには、随分と時間がかかる。
この学問と一般社会とのタイムラグ、落差を埋めるために、学者ではない私は何ができるだろうと考える。

あまり学問の世界を神聖視しすぎるのも良くないかもしれないが、学問というのは究極のところ、救いであると思っている。
立岩先生の『弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術』も、以前聴いた熊谷先生の講演も、私にとっては知識や思考の深まり以上に、救いだった。
一般社会であまり語られないこと、省みられないこと、見ないふりをされていること、けれども真実であり切実なことを、理論的に言ったり書いたりしてもらえた点で。


★立岩真也『弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術』(青土社、2000年)
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