月に舞う桜
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2018年02月01日(木) |
思い上がりもはなはだしく、今日を生きる |
わりとデリケートな問題を友人に相談したら、とても有益な情報をくれた。 その情報自体がすごく助かったのだけど、それ以上に、「言いづらいことだったと思うよ」と私の心情を慮ってくれたのが本当に嬉しかったし救われた。
友人のありがたみと大切さを噛みしめた日だった。
友人に恵まれるのは幸運なことだ。 それが大きな真実である一方で、「周りに素敵な人たちがいることは、自身の人徳の表れである」という、いつ誰が言ったのか分からないそんな言葉を、私はしばしば心の拠り所にしている。 だから、デリケートな問題を相談することのためらいや勇気を想像し、理解してくれるような人を友に持てたのは、私の人徳がその人を呼び寄せたからだ、と思い上がってみる。
それとはまったくの別件で、もう本当にあらゆる暴力がなくなってほしいと、最近よく思う。
性暴力も カルトの暴力も 親から子供への虐待という暴力も パワハラという暴力も 体罰という暴力も 差別や排除という暴力も ヘイトスピーチという暴力も 被害者の被害性から目を背けることで被害者を抹殺するという暴力も 人の尊厳や心や大切なあれこれを踏みにじる、名前の付いていないありとあらゆる暴力も。
私だって、そのつもりがなくても何らかの暴力を振るってきたことはあるのだろう。 それでも、少なくとも、あらゆる暴力がなくなってほしいと願うこの瞬間、私は善良な人間であると思う。 自分は善良な人間なのだと、思い上がる。
もしも目の前にデスノートが落ちてきたら、私はそれを拾わずにいられるだろうか。それを使わずにいられるだろうか。 そんなことを年に数回……少なくとも5回は自問自答する。
もう何年も前のあるドラマで、人を殺すためにナイフ片手に突進していった登場人物が、すんでのところで刃先を握りしめ、思いとどまる場面があった。自分の手を血まみれにして、震えていた。
例えば……
例えば、とても大切な人を傷つけた人物の名前を思いがけず見かけたタイミングで、デスノートが目の前に降って来たら、私はどうするのだろう。 ペン先がノートに触れる前に自分の左手でページをふさぎ、その手にペンを突き立てることができるだろうか。
分からない。
分からないから、もっと手前で踏みとどまるしかない。 私にできることと言えば、降ってきたデスノートを見て見ぬふりで踏みつけ、車椅子のタイヤの跡をくっきり残すことくらいだろう。
それが想像できるうちは、まだ大丈夫。
私は、健全で善良で、人徳のある人間だ。 そんなふうに思い上がって、今日も生きている。
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