月に舞う桜

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2017年01月23日(月) 障害者であるよりもまず女性でありたい

私は大学生の頃から性同一性障害に関心を持っていた。
その頃、ある競艇選手が性同一性障害であることを公表して、体は女性なんだけれど男性選手として登録したいとか、登録するとか、そんなことが話題になっていた。
私が性同一性障害というものを知ったのは、それがきっかけだったと思う。
(余談だけど、競艇レースが男女別に行われることも、そのとき初めて知った。)
もし、性自認が女性である自分の体が男性のそれで、家族や友人や社会から男性であることを当然のように求められ、強いられたら……と考えると、人生に降りかかる理不尽な困難や苦悩や自己嫌悪などなどは想像を絶するものだろうなあと思った。
性同一性障害から始まって、今はいわゆるセクシャルマイノリティ全般に関心がある。
セクシャルマイノリティの人たちは、そうでない者と同様に尊重され、権利が守られるべきだし、彼らができるだけ生きやすい社会であるべきだ。
そう強く思うと同時に、一方で、自分がなぜそういったことに関心があるのか不思議でもあった。
世の中には、知るべきことや目を向けるべき事柄が山のようにあるけれど、たいていは自分に関係の深いことから関心を持っていく。
私自身は、体も性自認も女性で、異性愛者だ。
大学生当時、私が知る限りでは周りにセクシャルマイノリティの人はいなかった。
つまり、一見「自分には関係のないこと」である。

それが、ここ数年で少し謎が解けた気がしている。
私は、障害者である前に女性でありたい。
私は、何より自分自身が女性として尊重され、女性として大切に扱われたいのだ。
障害者は、健常者に比べると性別を無視した扱いを受けやすい。
障害者には男とか女とか、そんなものはないと、信じられないことだけどそう考える人もいる。
そこまでひどくなくても、「障害者である」という側面しか見ようとしない人は、結構いる。
でも、私にとって、自分が女であることはとても大切なことだ。
男女平等とかジェンダーフリーとか、それはもちろん大事なことだ。自立した女性はとても素敵だと思う。
同時に、私は、好きな男性にはやっぱり守られたいし、甘やかされたいし、許容される範囲内でわがままも言いたいし、レディファーストの扱いを受けたら嬉しい。
輝いていたいし、きれいでいたいし、自分が「かわいい、素敵」と思うものを身に着けていたい。それはすべて、「女性として」だ。

去年だったか、某テレビ番組に出ていた一般人の男性が「娘は重度の障害がある。(自分と)とても仲が良い。お風呂も一緒に入っている」ということを言っていた。娘さんは成人している。
その番組は障害者云々とは全く違う趣旨の番組で、その男性は自己紹介の一環でそう話した。
私は、そんなことを平然と公共の電波で言える男性と、それを編集で切らずに垂れ流すテレビ局に嫌悪感を覚えた。
その娘さん本人が「私、今もお父さんと一緒にお風呂入ってるんです」と言うなら、別に構わない。
父娘が仲良しなのはいいことだし、娘さんが本当に父親との入浴をよしとしているなら、他人である私がとやかく言うことじゃない。
でも、障害があると、生活環境や諸々の事情から、女性でも仕方なく父親と入浴せざるを得ないことだってあるだろう。
障害者は、健常者に比べて、自分が置かれた環境から自分の力で抜け出ることが難しい。
幼少期からの積み重ねで、本当は嫌なことでも嫌だと言えなかったり、嫌じゃないと自分に思い込ませていたりすることだってあるだろう。嫌だと言ってしまったら生活が立ち行かなくなることもある。嫌だと認めてしまったら、自分の心が折れてしまいそうになることもある。
当事者がいいなら、別に何歳になったって異性の親と入浴しようが、好きにすればいい。
でも、一般的には、ある年齢以上の女性が父親と入浴することは奇異な目で見られるし、虐待と捉える人もいる。
だから、父親の方が嬉々として公表していいことではないと、私は思っている。
もちろん、あの娘さんが承諾したうえでの発言だった可能性も大いにあるわけで、それなら私はここにとても失礼なことを書いていることになる。
でも、女性障害者が「女性としての立場」を蔑ろにされることは、決して珍しいことじゃないことを、私は知っている(男性障害者も同じかもしれないけれど)。

健常者も障害者も、男性として、女性として、尊重されなければならない。
(もちろん、性別を超えて尊重されるべきであるのは言うまでもない)
私は、女性として大切にされたい。
同じように、性同一性障害当事者を、彼らが自認している性で尊重したい。


桜井弓月 |TwitterFacebook


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