月に舞う桜

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2016年12月03日(土) 講演……と言うほどのものではないけれど

実は、10月の某日、とある小学校に行って車椅子ユーザーとして話をした。
学校が社会福祉協議会(以下、社協)と連携して進めている福祉教育の一環で、日常生活で車椅子を使っている人の話を聴きたい(生徒たちに聴かせたい)ということだった。
自身の生活について小学生に話をしてほしい、という依頼は、私がお世話になっている支援機関経由で頂いた。
私が支援機関に退職予定を伝えたのと、学校の意向を受けた社協が人材についてその支援機関に相談したのが、ちょうど同じ時期だった。仕事を辞めて時間が空くからちょうどいいだろう、と支援機関は考えたのだろう。私に話を振ってくれた。人生の縁とタイミングというものは、本当に不思議だし、素晴らしい。

前の職場でOfficeソフトの講座やヘルパー養成講座の講師をしていたこともあって、人前で話すのは苦ではない。けれど、子供相手に自分のことを話すのは初めての経験なので、どんな感じになるのか想像がつかなかった。
これまでとは、聞き手の目的意識が違う。仕事で携わってきた講座の受講生は、パソコンを使えるようになりたいとかヘルパーの資格を取りたいといった動機があるから、聴く姿勢ができているけれど、おそらく子供たちの多くは、別に私の話なんか聴きたいわけではなく、ただ授業だから仕方なくそこに座っているのだ。
私は、話すことは苦ではないけれど、子供の心をぎゅっと掴めるような話術があるわけではない。日常生活の話を、と言われても、私は特に素晴らしくも面白おかしくもない毎日を過ごしているだけなので、たいした話はできない。人に助けてもらうことや自分で工夫していること、電車の乗り方、車椅子ユーザーとしてのちょっとしたお願い事なんかを話すだけである。だから、途中でよそ見やあくびや居眠りをする子が出るんじゃないだろうかと、若干心配だった。
が、蓋を開けてみれば、予想以上にみんなまじめに聴いてくれたのである。ちゃんと私の方を見てくれたし、「車椅子に乗ったことがある人?」とか「押したことある人?」と質問すると結構な人数が手を挙げてくれたし、最後の質問タイムでは、きちんと話を聴いていなければ思い浮かばない疑問を投げかけてくれた。

今月も、社協からの依頼で、別の小学校で話す予定がある。12月は人権週間と障害者週間があるので、ちょうど良いタイミングらしい。

若い頃は、障害者という側面を前面に押し出した生き方をするつもりはなかったし、障害者だからという理由で何かを求められることが嫌だった。それは生き方の「選択」ではなくて、障害者として生きることの「拒否」だったように思う。
いまも、障害者であることを売りにするつもりは毛頭ないけれど、以前よりは考え方が軟化した。それは、自分自身の受容であり、障害者以外の面も含めて自分が周囲に認められていると思えるようになったことも、大きな要因だろう。今回、依頼してもらえたのは、「障害者だから」じゃなく、「障害者である、この私だから」だと思えた。
たいした話じゃなくても、私の話がほんのちょっとでも子供たちの役に立てるのであれば、それは私が他人に提供できる他のこと――Officeソフトの使い方を教えるとか、書類を作成するとか、友達の相談に乗るとか、親に代わってネットで手続きするとか――と同列のことだ。

私は、誰もがなるべく生きやすい社会を作るためには、小さい頃からの教育がとても大切だと思っている。幼少期からいろいろな人と接して話を聴く機会を得ることで、社会のこと、自分とは異なる立場の人たちのことを知ることができる。知ることは、大きな一歩だ。無知は、偏見や嫌悪や排除を生む。
「誰もがなるべく生きやすい社会」とは、「自分も、自分以外の人たちも生きやすい社会」ということだ。自分以外の人たちについては、想像力を働かせるしかない。知識は、想像力の大きな助けになる。
もちろん、「知ることによって生まれる憎悪」というものが存在することも分かっているつもりだけれど、そこには、また別の問題が潜んでいると思う。

私は子供たちに対して車椅子ユーザーとして話をするので、車椅子を使った生活のあれこれを知ってほしいという思いはある。ただ、それ以上に、「この社会にはいろいろな人がいるんだよ」ということを知ってほしい。
車椅子ユーザーのように外見で明らかに障害者と分かる人もいれば、外見では分からなくても大きな障害や病気を抱えている人もいる。高齢者も若い人も、子供も、男性も女性も、外国人も、異性愛者も同性愛者も、内部疾患者も、つらい成育歴を持った人も、何一つ問題がないように見える人も、いろいろな人がいて、社会は成り立っている。自分自身も含めて、どんな人でも一人一人が、等しく大切にされる権利を持っている。それを、知ってほしい。
大事なのは、お年寄りや障害者だから親切にすることじゃなくて、車椅子ユーザーでも若くて健康な男性でも、困っていたら助けてもらえるということだ。誰かを助けるばかりじゃなくて、自分も、助けてもらえる権利がある。
本当は、一番伝えたいのはそういうことだ。

まあ、いくら子供に話したって、教師がいじめに加担してるようじゃ、どうしようもないんだけど。


桜井弓月 |TwitterFacebook


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