月に舞う桜
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忘れないでいるために、書き残しておきたい。
3月11日、金曜日。 この日、母が入院した。もちろん震災とは関係なく以前から決まっていたことで、一週間ほどの予定だ。
父も私も有休を取り、午前中に病院まで母を送って行った。 レントゲンと心電図検査を受け、入院手続きを済ませて病室へ。運良く、母のベッドは窓側で、見晴らしが良かった。 私たちはもう少し長くそこにいるつもりだったけれど、昼食が運ばれて来たのを機に、母が「もう帰りなさい」と言った。 思案したあげく、父が「そうしよう」と言うので、後ろ髪を引かれつつ病室をあとにした。 いま思えば、この判断は正しかった。地震が起こるまでそこにいたら、帰宅が大変だっただろうから。
病院の近くでお昼ご飯を食べ、帰宅した。 午後2時46分、父はリビングにいて、私は自室でネットを見ていた。 数日前から地震は起こっていたから半ば慣れてしまっていた部分もあり、最初に揺れを感じたときは今回もすぐ止まるだろうと油断していた。 けれども揺れはおさまらず、だんだん強くなっていく。 そして、パソコンとエアコンと部屋の電気がいっぺんに消え、hide人形が落ちてきた。
そのときはもう、頭の中で危険アラームが鳴り響いていた。 家中が、ガタガタと音を立てていた。人生で体験したことのない、長くて激しい揺れだった。 私は、家の中では自走式の車椅子を利用している。部屋を出て玄関前まで行こうと思うのだけど、揺れと、半分パニックになっているせいで車椅子を動かせなくなり、父が引っ張ってくれた。
揺れはどれくらい続いていたのだろうか。 何だかもう時間が果てしなく感じられた。 家の中はこれといった被害はなく、植木鉢が棚から落ちて辺りが土まみれになっている程度だった。 少し気持ちが落ち着いてくると、またすぐに余震がやって来る。そのたびに、いつでも外へ出られるように玄関前に出た。それを何度も繰り返した。
母が入院すると知っている人が、私が家に独りでいるんじゃないだろうかと心配して、10分ほどかかるところを駆け付けてくれた。 それから、団地の「お助け隊」と呼ばれる人たちが、一軒一軒「大丈夫ですか?」と声を掛けて回っていた。 誰もが自分のこと、家のことで手いっぱいのときに、ありがたいことだ。
電気はいっこうに復旧しなかった。 コートを着込み、分厚い靴下を重ね履きして寒さに耐えながら、携帯ラジオで情報を仕入れた。 テレビもネットも使えず、貴重な電池だから携帯電話もあまり使っていられない。そうなると、携帯ラジオが唯一、情報源だった。
夜、家の中は真っ暗になった。 空が少し明るいままだったので、ちょっと向こうの町では電気が通じているのかもしれない、と父が言った。実際、後日会社の同僚に聞いたところによると、隣の区は停電しなかったようだ。 私たちは懐中電灯と非常用のロウソクをつけて、わずかな明かりを灯した。 幸いなことに、うちはガスも水道も止まらなかったので、お湯を沸かして温かい味噌汁を飲み、チキンラーメンを食べた。 食欲なんてなかったけれど、とにかく体を温めたかったし、何か食べておかなければという危機感があった。
携帯電話には何度か緊急地震速報が来た。あの速報の音にも、余震にも怯えた。 ラジオからは、交通網が麻痺して帰宅難民が町や駅にあふれているという情報が聞こえて来た。
母は無事だろうか。こういうときは、病院が一番安全かもしれない。きっと、私たちのことを心配しているだろう。 会社の人たちは大丈夫だろうか。帰ることができたのだろうか。 友人たちは、みな無事でいるだろうか。 暗い中でじっとしていると、父の兄弟たちから連絡が入り、互いの無事を確認し合った。
何もすることもないので、少しでも体を休めようと8時半過ぎにはベッドに入った。 熟睡できるはずもなく、うつらうつらしても緊急地震速報に起こされたりした。 10時過ぎだっただろうか、電気が復旧したと父が知らせにきた。
私の3月11日は、そうして終わった。
翌朝、母や友人や同僚と連絡が取れ、みんな無事でいることが分かって安心した。同僚の中には何時間もかけて帰った人もいれば、会社に泊まった人たちも大勢いたとのことだった。
テレビでは「観測史上最大の地震」と伝えていた。 母の入院に加え、この大地震だ。非日常的な事態が重なって、そのときはまだ何だか半分夢の中にいるような気分だった。
その後、母は13日の日曜日に手術し、おととい19日の土曜日に無事退院した。もちろん、まだ無理は禁物だけれど、比較的元気にしている。
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