月に舞う桜
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2005年12月20日(火) |
香織ワールドと寿賀子全集 |
※昨日の分も更新しています。
電車に揺られながら、江國ワールドにどっぷり浸かる。 あの人の物語は、どうしてあんなにかなしいんだろう。 かなしくて、とても美しい。 誰も彼もがきちんと生きているから、かなしいんだろうな。 江國さんの小説を読むと、決まって「私が今、一番会いたい人は誰だろう」と思う。そして、「私が死ぬとき、傍にいてほしいのは誰だろう」とも。 すごく、大切な人を探している感じになる。
夜は、テレビで橋田寿賀子さんのお宅を見た。 広い広いお宅には蔵書室というのが一室あって、一歩入ると扉つきの大きな本棚にぐるりと囲まれる。 そこには橋田さんがこれまで書いてきた本がずらっと並んでいるのだが、中でも生原稿を製本したものには、ちっともファンではない私でさえ感動した。 外見は立派な文学全集という感じの作りになっていて、開くと中には直筆の原稿が閉じてあるのだ。 すごい! この世に一冊しかない本、命の結晶の本だ! 何十年経っても、橋田さんが亡くなったあとでも、あの本を開いて原稿に触れれば、書いた当時の息遣いが伝わってくるかのようなんだろうな。 命を削って生み出したものによって人が生き続けるというのは、こういうことなのだなと思った。 私はパソコンを使うようになって以来、原稿を全く手書きしないので、例えば『選びし者へ』の生原稿というのも存在しない。 ちょっと惜しい気がした。 パソコンの中のファイルは何部でも印刷できてしまうし、それを見ただけでは誰が実際に打ったのか分からない。 文章自体は私の生きた証でも、「印刷されたもの」は証の濃度が薄れてしまう。 と言って、じゃあこれから原稿を手書きに変ようなんてことは、これっぽちも思わないのだけど。 それに、原稿を遺すこともかなり魅力的ではあるけれど、自分が書き記したものや作ったファイルを全て処分して死ぬのも粋かもしれない。 「場所」は無尽蔵ではないし、私が去った跡は必ず誰かがそこを埋めるのだ。だったら、死後も尚「場所」を占拠することがないように、潔く何も遺さずに逝く方が私にはしっくりくるような気がするのだ。 でもやっぱり、いいな、あの製本された生原稿……。 橋田さんはセリフの一字一句覚えているそうで、それを聞いたとき思わず「そうだよね!」と頷いて、お酒を酌み交わしたい気分になった。 ドラマというのは何人もの手によって作り上げられるけれど、やはり「一番最初の生みの親」のものなんだなぁと思った。
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