月に舞う桜

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2005年11月19日(土) それしか言えないけれど

NHKの連続テレビ小説『ちゅらさん』や映画『いま、会いにゆきます』の脚本を手がけた岡田恵和さんが、新聞でコラムを書いていた。
「死のうとしている人たちへのメッセージ」なんて言葉は、きっと適切ではない。
そんな生易しいものではなくて、奇麗事を剥ぎ取った、懺悔に似た切実な叫びのような感じがした。
本当に真剣に何かに向き合おうとしている人の言葉は、少しの摩擦も起こさず、怖いくらいすんなりと心の奥まで流れ込んでくる。
ごく稀に、自分以外の誰かの言葉が自分の思いを完全に、過不足なく表現していることがある。
そういう言葉に出会ったとき、私は何もかも投げ捨ててその人に会いに行きたくなる。
記事を目で追いながら、「この人に会いたい!」と思った。
彼が手がけたドラマや映画のことは分からない。でも、少なくともあのコラムに書かれた岡田さんの言葉は、私が日ごろから思っていることと寸分違わぬものだった。
いや、違うな。
自分の中ではちゃんと言葉になっていなかったんだけど、「私の気持ちはこれだ!」って完璧な形で示された感じ、もしくは目覚めさせられた感じだ。

「何もいいことがなくても、生きていてほしい」と、岡田さんは書いていた。
「生きなくてはだめだという道徳が何の意味もないことは分かっている。生きていれば必ずいいことがあるとか、生きたくても生きられない人だっているんだからとか、そんな言葉に何の説得力ないことも分かっている。それでも、生きていてほしい。それしか言えないけれど、生きていてほしい」と。
(カギカッコの中はコラムの原文ではありません。桜井が覚えている範囲で再現しています。でも、ニュアンスに間違いはないと思います)
上に「懺悔にも似た」と書いたのは、岡田さんが「希望を感じられない社会にしたのは自分にも責任があるから、自殺する人を責められない」と言っているからだ。
どこかで加害者的な意識を持っている人の言葉は、とても真摯に聞こえることが多いんだな、とよく思う。
集団自殺が話題になったとき、ワイドショーのあるコメンテーターが「生きたくても生きられない人がいるのに、自分から死ぬなんて許せない」と言っていた。
そうじゃないんだよ! それとこれとは全く別問題なのに、そんなこと影響力の大きいテレビで言ってどうするんだよ!
本当は生きたくて、生きようと努力もしたけど、それでも生きられないから死ぬんじゃないか!
そう憤った日から、私は自分自身の言葉やそれを的確に表現してくれる人をずっと探していたのかもしれない。

岡田さんのコラムのように、誰かに真に伝わる言葉を紡ぎたい。
全ての人に伝わる言葉なんてありえないのかもしれない。
だとしたら、せめてたった一人でもいいから、その人に伝わるようなものを書けたらと思う。

「死ぬな」とか「生きてほしい」と言うことは、何というエゴだろうか。
まだ苦しみ続けろと言っているのと同じことだから。
絶望感も幻滅感も悲しみも苦しみも、他人である私には背負えないし解決もできない。
だから、他人のそういう感情を前にしたとき、私は「生きなくちゃだめだ」なんて何の足しにもならないことは言えないし、保証もできないくせに「生きていればいいことがあるから」なんて無責任なことも言えない。

でも、ごめんなさい。やっぱり私も生きていてほしいんです。
勝手なことを言っているのは分かっているけれど、それでも生きていてほしいんです。
悔しいんです。何もできない自分も、生きていけないと貴方に思わせるような世の中のために、貴方の方があらゆる可能性を捨てなければならないことも。
生きていて良かったと貴方が思える日が来るかどうかは、私には分かりません。
でも、生きていてほしいです。私には、それしか言えません。

今、日本の年間自殺者数は3万2千人を超えています。
自殺成功率は決して高くないのに、です。


桜井弓月 |TwitterFacebook


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