優雅だった外国銀行

tonton

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36 哀しい別れ
2005年07月06日(水)

人の出入りは外資系企業にあっては致し方ない事である。 パリ国立銀行東京支店への、いわゆる本店人事の出向社員は5年前後の滞在が多いのであるが、別れが哀しいのも少なくない。

謙治は、いつしか支店内で年長者の部類になっていた。 中学校を出てすぐ働き始め、長い間最年少者として働く事に慣れていた謙治であったが、ふと気が付くと周りは謙治より若い者ばかりになっていた。 上司のほとんども、謙治より若いか同年輩が多く、マネージメントの外人たちも、一部を除いて同年輩である。 ランクの違いはあれ、同年輩というのは通じ合えるものである。謙治は、総務・人事担当のフランス人スールミヤック氏と特に仲良くなっていたが、1986年の秋にロンドンへ転勤になった。 素早い反応、歯に衣着せぬ物の言い方、整理整頓と記憶力の良さ。 謙治は彼を尊敬し無理ではあったが見習おうとした。 しかし、相変わらずスールミヤック氏は、彼の上司たちからの受けは良いとは言えない状態が続いていた。 謙治の好きな事の一つ、「歯に衣を着せない言い方」は、洋の東西を問わず上司からは煙たがられるのであろう。

東京支店コンピューター化の折りに、香港支店から来ていたポルトガル人のオズモンド氏は、若い時代のスールミヤック氏も、その前任者モレオン氏をも良く知っていた。 彼は若い時、彼の部下であったモレオン氏を、小心で卑怯な策略家と称し、スールミヤック氏を人生の楽しみ方を心得た人だと言って、東京滞在中懇意にしていた。

パリ国立銀行駐在員事務所時代から続いているクリスマスパーティーは、いつの間にか新年会に変わっていたが、スールミヤック氏の人生を楽しむ心がイベントを盛り上げる為に奔走した。 ビンゴ大会を取り入れたのは彼であったが、その賞品を費用を掛けずに獲得するのが得意であった。 エール・フランスからタヒチ往復航空券、サイクル・プジョーから自転車、トムソンからはラジオカセット、かわいそうなスールミヤック氏の友人達は、新年会の季節になると何かをせびられる事になった。

一度だけ謙治は、スールミヤック氏に注意された事があった。 些細の事であったが身に染みている。 スールミヤック氏と一緒に何かの書類を整えている時、書き込む為の用紙が2枚必要なのに1枚しか無かった。 謙治はコピー機へ走り、書き損じを考慮して2枚コピーした。 スールミヤック氏は、きっぱりと言った「これを私は嫌いなのだ」。 以後、無駄なコピーは撮らないように心掛けている。

欧米人にとって、東京での生活は長い間天国であった。 物価高を除けば、天国は続いているかも知れない。 日本人は総じて欧米人に親切であり、特に日本女性の必要以上の親切を感じている男性達も多いだろう。 初めは戸惑い、次第に慣れ、遂には家庭を壊してしまった人もいる。 しかし、フランス人にとって、親類縁者から遠く離れて生活する事は好む事ではないらしい。 だからと言って、長い海外生活の甘い汁を存分に味わってしまった彼らは、本店勤務を心由としない。 スールミヤック氏は勤務希望地として、マドリード、バルセロナ、ブリュッセルを本店人事部に申請していたが、ロンドンも悪くないであろう。 「その内遊びに行くよ」と言って送り出した。 離日の数日前に、2人だけで食事をした。 多くを語らなかったが、お互い通じるものが多かったと、謙治は思っている。




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