優雅だった外国銀行

tonton

My追加

20 資料漬の新頭取カルベ氏
2005年05月27日(金)

毎年そうだが、季節が良くなるとお偉いさんが来日する。 この年(1979年)初頭に頭取が変わったが、日本に挨拶に来る。 東京支店へではない、大蔵省、日本銀行、その他の主だった所へだ。

前頭取ルドゥー氏は、7年程の在任中に東京へは3回来ている。 いずれも夫人同伴であったが、ルドゥー氏自身よりも夫人の変わり方が甚だしかった。 初めての時、話しの成行きで大宮の盆栽村へ行く事になった。 謙治は行くことが出来なかったので、女性ガイドを付けてハイヤーで行ってもらった。 ところが大渋滞に巻き込まれ、夕方の行事の方が気になって、目的地に着かずに帰って来てしまったのである。 高速道路が無かった時代であるが、片道2時間位を見ていた謙治は、非難される事を覚悟していた。 相手は大銀行の頭取夫人である。 しかし、謝ったのは頭取夫人であった。 「せっかく準備してくれたのに、途中から戻ってしまって申訳ない。でも途中で食べたお蕎麦がとても美味しかった。 もし、時間が有るなら主人にも食べさせて上げたい」。

 板に付いた頭取夫人として来日した2度目、彼女は謙治の名前を覚えていた。 何かにつけて「ミスター・ツムラ」の連発である。 そう言えば、支店長会議でパリに行った東京支店長シャピュー氏がパーティーで夫人に会った時、「ミスター・ツムラは、元気でいるか?」と聴かれたそうだ。 それ以来シャピュー氏は、本店から来た人達に謙治を「ルドゥー夫人の親友のミスター・ツムラ」と紹介するようになった。

高輪に般若苑という料亭が在る、そこで晩餐会を開いた。 招待客は20人位だったと思うが、1人に1台の運転手付きの車が来ていた。 もう少しでお開きとなる頃、頭取夫人は席を立ち、中居さん、板前さん、そして、外に出て運転手全員に、「ありがとう」を言い、握手をして回ったのである。

しかし、3回目は違った。 全くの別人になっていた。
国際空港が羽田から成田に変わった時、マスコミが交通渋滞を問題にして騒ぎまくった影響で、気の小さい支店長シャピュー氏は、車で成田空港へ行く事を嫌った。 成田エキスプレスもまだ無く、京成電車のスカイライナーだけが頼りであった。 それも、スカイライナーは全席指定であった為、乗れなくなると大変だといって、航空機の便名が分かるとすぐに前売り券を買わされた。 飛行機というものは、ほとんど時間通りには着かない。 まして遠いパリからの便である。 定刻に飛び立っても風の影響その他で早く着いたり遅れたりが普通である。 迎えの時は、到着の数時間前に到着時間の確認をするのであるが、ほとんどの場合スカイライナーの指定券は買いなおす事になった。 帰りがもっと大変である。 通関の時間などは予測が難しい。 その様な訳で、前もって買った乗車券のほとんどは無駄になった。 おまけに、スカイライナーは30分毎に発車するとは限らず、昼間は1時間間が開くことも多かったのであるが悪い事に、成田空港反対派に一編成焼き討ちされた京成電鉄は、間引き運転を余儀なくされていた。

大きなスーツケースをたくさん持ったルドゥー氏一行4人とシャピュー氏それに謙治は、そんな訳でスカイライナーに乗れず、急行電車で上野へ向かったことがあった。 平日の夕方で、途中から高校生で満員になってしまった。 ヨーロッパ最大の銀行の頭取が、満員電車に荷物をたくさん持って乗っていたなんて、誰が想像したであろう。

頭取夫人は、神経質で横暴な所の有るおばさんに変身していた。 シャピュー夫人と謙治が世話役になったのであるが、普段から明るい性格のシャピュー夫人も、緊張で顔を強ばせる事が多かった。 又しても謙治は、その地位に慣れてしまった人の、嫌な面を見たような気がして哀しくなった。

新頭取を迎えに行ったのも車ではなかった。まだ、支店長シャピュー氏は渋滞を恐れていた。 謙治は、既に何回も車で新空港へ行き来している。 都心に入る所で少しの渋滞はあるが、スカイライナーよりはずっと早かったし、空港へ行く時はほとんど問題は無かった。 しかし、シャピュー氏は電車を好んだ。 ひとつにはドライバーの問題があった。 シャピュー氏は、彼のドライバーの運転を嫌った。 アクセルペダルの操作が下手なのである。 踏み込む、放すの連続なのだ。 謙治はシャピュー氏に言われて、ドライバーに注意した事があったが効き目は無かった。 長距離の場合は、事情が許す限り謙治が運転したが、正規のドライバーを無視は出来ないし、謙治は、他にする事が多すぎた。

前頭取ルドゥー氏は、どっしりした親分タイプの人であったが、ジスカールデスタン大統領時代の大蔵大臣であった新頭取カルベ氏は、40歳代前半のバリバリの事務屋で、資料に埋まっている事だけが生甲斐の様な人であった。 車でも、電車に乗っていても、外を眺めたり会話をしたりせず、常に書類に首っ引きで、時々顔を上げるのは質問する為だけであった。 週末に横浜の三渓園へ行った。 この日はドライバーを休ませて、謙治が運転手になったのであるが、頭取は観光などどうでも良いのである。 羽田空港も、川崎の煙突群も、遥かに見える鶴見の総持寺も、それらの説明に対して生半可の返事をするだけで、持って来た書類から目を離す事さえしない。 定年を控えたシャピュー氏が、こんなにも緊張するかと思うくらい緊張のし続けであった。 三渓園では、車から降りないのではないかと心配になったほどだ。




BACK   NEXT
目次ページ