優雅だった外国銀行

tonton

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5 外銀村
2005年05月07日(土)

三菱地所から30坪貸しても良いと言う返事が来た。 この時期、バンク・ナショナル・ドゥ・パリだけでなく、何行かの外国銀行が東京に駐在員事務所を開設しようとしているのが分かった。 それらに、1年ほど前に竣工している国際ビルの9階を割り当てるというのである。 この年、1968年の国際ビルは三菱地所の看板ビルであった。 帝国劇場と出光興産の協力を得て、三菱地所が総力を挙げて建設した、地上9階、地下6階建て、1・2階が店舗、地下1・2階がレストラン街、地下3・4階が駐車場、その下が機械室になっている。 帝国劇場が一角を占め、9階には出光美術館を擁している。 かくしてドイツ銀行、英国のバークレイズ銀行、同じく英国のウエストミンスター銀行とバンク・ナショナル・ドゥ・パリが軒を並べる外銀村が、真新しい国際ビルの9階、皇居を見下ろすお濠側に出現したのであった。

ラボルド氏がフランスから家族を連れて戻って来た。 モンテビデオを引き揚げていた奥さんと2人のお子さん達は、フランスの家族のもとで休暇を楽しんでいたのだ。 9才の男の子オリヴィエと2才の女の子ジョエル、奥さんは謙治と同じ29才であった。

ラボルド氏とは、言葉の問題はあまりなかった謙治であったが、ラボルド夫人は、ほんの少ししか英語を話さなかったし、オリヴィエは全く英語が通じなかった。 もちろん2才の子ジョエルは万国共通語が通じた。

ドライバーとしての謙治は、急に忙しくなった。 朝、元麻布の家からオリヴィエとラボルド氏を乗せて、先ず九段のリセ・フランコ・ジャポネ(暁星学園国際部、フランスの学校)。それから丸の内の事務所。 そして、すぐに元麻布に戻り、奥さんを連れてのデパートめぐりが始まった。 もちろん、最初はその必要があった。  入居した家には、たくさんの物を買う必要があっただろう。

フランス語を話す秘書が決まった。 決まったと言うより、正規の人が決まるまでの臨時である。 目の大きな襟足の長い、一見すると美人かなという40才ぐらいのご婦人で、彼女はしかし、朝は10時過ぎまで出勤せず。 謙治も事務所にいられる時間は極端に少なくなっていた。 しかたなくラボルド氏はローマ字で書いた、「今は日本人が居りません、10時過ぎにおかけ下さい」を読み上げて電話に対応していた。
この秘書には、一風変わった習慣があった。 当時はフランスパンと言えば「ドンク」と決まっていた。 そして、そのドンクのフランスパンはフランスの三色旗の青・白・赤をあしらった袋に入れてくれていた。 彼女は出勤時に、そごうデパートでそれを買い、必ず机の上に置いていたのである。 一人しかいない秘書は、もちろん受付も兼ねていた。 従って、バンク・ナショナル・ドゥ・パリ東京駐在員事務所に訪ねて来た人の目に、最初に飛び込むのが、ドンクの派手な袋なのであった。 彼女が、ジャーマンベーカリーのパンが好きだったら、ラボルド氏は、文句を言っただろうか。




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