大型トラックに満載された引っ越し荷物が届いた、モンテヴィデオからである。 モンテヴィデオがウルグアイの首都であることは、調べて知っていたが、そこで使っていたという家具や寝具は、この家に前から住み込みで働いていたメイドの芳子さんも驚く程お粗末なもので、自衛隊か刑務所で使うようなベッド、汚れた毛布、食器類は良さそうなものが無くはなかったが揃ってなかった。 ラボルド氏は、日本がどのような国か分からず、家具が買えないと困るので全部持って来たのだと言って、彼の口癖になっていた「日本は極東だから」を連発した。 東京オリンピックが過ぎて4年。 世界は少しは日本のことを知り始めたと自負していた謙治であったが、フランスから見ると日本はまだまだ遠い未知の国であり、日本を中国の一地方と思っているフランス人がたくさんいるということであった。 ラボルド氏のアシスタントがなかなか決まらないでいたが、原因はその辺にあったのだろうか。 赴任したての46才のフランス人ラボルド氏は、明るく陽気で人懐こく、彼は謙治を「私のアシスタント」と誰にでも紹介していた。 引っ越し荷物の整理中、5時を過ぎると、「帰る時間だ」と言い、未だ運送業者が働いているのに、謙治を帰そうとした。 やっと業者たちの限りを付け、帰ってもらってから謙治が帰ろうとすると、「送って行く」と言う。 日本では、部下や使用人を送って行くようなことはあまり無いと断ったが、どうしてもと言うので、謙治は妻を紹介する良いチャンスだと思い送って貰うことにした。 ラボルド氏が、日本へ着て最初にしたのが、自動車運転免許の切り替えであった。 牛乳瓶の底のような眼鏡をもってしても、彼が目の検査を通るのは容易では無かった。 読めないのである。 もちろん、ひらがなやカタカナを読むのではなく、上下左右の一ヶ所が開いている輪の、開いている方を示せばよいので、日本語は不要なのである。 ラボルド氏は、分からないのに指されると何かをわめいた。 何度か繰り返すうちに、根負けした検査官は「合格」の判を押し、謙治は安堵の胸を撫で下ろしたのであったが、それが間違いであったことにすぐに気が付いた。 日本の運転免許を手に入れると、暇を持て余しているラボルド氏と謙治は、左側通行に慣れるためと、地理の勉強と称して、あちこち走り回った。 まだ、車を買ってなかったので、友人の会社のを借りっぱなしになっていたオペル・キャピタンは、当時の日本の車に比べれば大きくはあったが、アメリカ車程ではなく、走り易い方の車であった。 しかし、ラボルド氏の運転はメチャクチャであった。 左ハンドルなので謙治は当然右側、つまり道路の中央寄りに座った訳だが、数分の内に何度対向車とぶつかりそうになったことか、謙治は「わあ」とか「ウオッチアウト」とか、覚えたてのフランス語「アタンション」を叫び通しであった。 謙治は神宮前に住んでいた。 元麻布からは遠くなく、道順も複雑と言うほどではなかったが、ラボルド氏を独りで帰すのは忍びがたいので送ってもらいたくなかった。 帰り道を説明しながら、そして、何度か「危ない」と叫びながら、それでも10分程のドライブは無事に済んだ。 謙治の住んでいた都営アパートは、竣工して未だ日が浅く、狭くはあったが、少なくとも外観は薄汚れてはなかった。 夕暮れ時のそれは、美しくさえ見えた。 「何だこれは、シャトーではないか、フランスのアパートは百年以上の建物が多い、こんな奇麗なアパートとは思わなかった」と本気かお世辞か分からぬ事を言いながら4階への階段を上った。 少し前のことになるが、謙治が何かの時の連絡用にとアパートの電話番号を渡した。 ラボルド氏は「これはお前の家の電話か、本当に電話が家にあるのか、どこかから取り次いで貰うのではないのか」と驚いていた。 フランスには、パリにもそれ程電話は普及してなく、ラボルド氏の出身地の南仏ビアリッツには、町役場に一本あるぐらいだという。 謙治の妻は外出中であった。 それを知ってラボルド氏は安心したようであった。 引っ越し荷物を整理していたそのままの格好で来てしまったので、いくら使用人の妻とはいえ、そのままでは会いたくないのが本心であったろう。 翌朝車を点検すると、案の定、右側面に一本長い引っ掻き線が入っていた。
|