ずいずいずっころばし
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2006年03月26日(日) 日記考

平凡な人間に非凡な日々が続くことなどない。

子供の頃の夏休みの日記は夏休み最後の日に一ページも書いていなくて母に叱られながら創作日記を一日でこしらえた。
よその家の子のように、田舎があるわけでもない我が家。父は年中多忙。
どこかに旅行へ連れて行ってもらえるわけでもない。
そんな子が日々の日記を付けるのは耐え難いことだ。
何の変化もない日常。
文才があるわけでもない私が書く事と言ったら、日々食べたおかず。
これだってご馳走三昧であるわけでもない。

自分が食べたいと頭の中でそうぞうするもの、過去に食べた美味しかったものなどを羅列。

創作食事日記のできあがり!

毎日苺アイスクリームを食べました。ハンバーグでした。カレーでしたのお粗末日記を提出された先生は果たして読んでいたのだろうか?
一度だって添削や感想を書いた日記を返却されたことが無い。

じりじりと熱された暑い夏の日差しの中、「あ〜あ、つまんないな〜あ」と一人ぽつんと砂場でため息をもらしていた小学生の女の子の日常なんぞはだ〜れも関心がない。
たとえば、そんな女の子が「孤独」という言葉を知っていたら、日記のページは「孤独」で埋まっていたに違いない。

では女子大生時代の私に日記を書かせたら。
これは大変センセーショナルな出来事で埋まっている。
めまぐるしいばかりに変化に富んだ日々。
考えのユニークさ、小生意気な女子大生のたわごとほど愚かで、面白く、輝かしく、色彩にとんでいるものはない。

さてここで人間はなぜ日記をつけるのだろうと考えてみよう。

古典で言えば、「土佐日記」は紀貫之が土佐守の任を解かれて都へ帰る解放感を女性の日記として表現したり、
菅原考標女は「更級日記」を源氏物語を読めるという心の高ぶりから書いた。
岸田劉生は「癇癪日記」ではないかとおもうような癇癪ばかりの日記を書いて発散。そうかと思うと思いっきり個人的な、肉体の秘密まで書いてしまったりした。

日記というとすぐに頭に思い浮かぶのはあの永井荷風の「断腸亭日乗」だろう。
これは世に出す事を念頭に置いた嘘と誇張とに満ちたもののようだが白眉。
荷風らしく花街の風俗描写連綿、世相風刺などはさすが文壇人。しかし、弟との確執などは嘘だらけでこうした点をみるともう日記としてみるよりは創作作品として堪能するものとなる。
すごい人と言えば、あの野上弥生子さんの「野上弥生子日記」は何と62年もの長きに渡ったものだ。
こうなると激動の時代に生きた人の歴史的証言にもなりうる。読み込むうちにあの気品に満ちた人とも思えないようなめったきりの批評があってこれまたすごい。
それは芥川、志賀直哉、武者小路などはめちゃくちゃにばっさ、ばっさと切って捨ててある。
日記というのは人にみられないという解放感と共に、他方ではいつか誰かの目にふれるかもしれないという一抹の疑念と共に書かれるのが常だ。
樋口一葉などはその日記(20歳から25歳でなくなるまでの間)の内容から「処女性」を世の論争の種にされるとはユメユメ思わなかったことだろう。全くこの国の清純願望、処女礼賛の根強さには今更ながら驚くが・・・
作家であり、初恋の人半井桃水と観相家、久佐賀なにがしとの関係をとり沙汰されて久しい。
今で言う「追っかけ」、昔流に言うなら「好事家」、「研修者」にしてみるとその作品や著書だけを研究、あるいは愛するに留まらず、そうした著者の一挙手一投足、はたまた関係者との肉体関係まで詮索して作品を読み込もう、あるいは心のひだまで読みたいと言うのは恐れ入るばかりだ。
また西洋ではあのアナイス・ニンの日記は彼女が11歳から亡くなる74歳まで続く。
アナイス・ニンは日記を父親が母親を捨てて他の女性のもとに逃げた時に書き始めた。父親に読んでもらう為に。
それ以来日記は彼女の無二の友達となり、そこに彼女は自分の全てをつぎ込んでいくように、いつでも日記を持ち歩いて寸暇を見つけては書いた。
日記はアナイス・ニンにとって常備薬のようなもの。

それでは市井の人間である私は、なぜ日記を書くのだろう?
そもそもHPを立ち上げたのは日記を書くためであったようなものだ。
鉛筆を持って書くよりはタイピングの方が簡単で便利という利点もあった。
また、知った人がいないバーチャルな世界でおもいっきり自分を解放させて自己を表現出きると思ったから・・
それは雑踏の中での孤独と、何とも言えない孤立した解放感と似たようなもの。
そして何よりも私の場合は自分の心の声を吐き出さずには居れなかったことだろう。
田舎暮らしのさみしさや、両親を亡くした埋めようのない喪失感や、恋しいあの人のことや、読書メモや、日常のあれやこれや。
つまりはこんなことどもはまさに日記の特性である。
あまたあるHPにおける私という存在は雑踏にまぎれたほんの一粒の塵芥のようなもの。そんな存在としての日記。


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