ずいずいずっころばし
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嫉妬。漢字にするとなぜか女扁がつく。 嫉妬には、色々ある。昇進につきまとう嫉妬、物欲がもたらす嫉妬、美への嫉妬、恋にまつわる嫉妬など。 文学でもオペラでも演劇でもこの嫉妬をテーマとしたものは傑出したものが多くある。何世紀も前から取り上げられたこの「嫉妬」は古今東西を越え、人間を描く上で不動の位置を勝ち得ている。それだけ人間の心に巣くう不可避のものなのかもしれない。
江戸歌舞伎の大立て者に、鶴屋南北と桜田治助の両作者がいる。 治助の代表作の「大商蛭子島」(おおあきない ひるがこじま)では「辰姫」の嫉妬の姿が美しくも凄まじい。
辰姫は、愛する頼朝と政子の祝言の模様を落ち着いて眺める気持ちでいようと自らをいましめる。 ところが鏡に向かって髪を梳いているうちに二人の事を思い出し、だんだんに腹が立ってくる。 心を晴らそうとして酒の燗をするが、飲もうとしても飲むことができず、茶碗を砕いて嫉妬に身を焦がす。水を汲んで飲もうとすると手水鉢から炎が立って「ひさげの水も湧きかえる」嫉妬となる。しかし僧が現れて数珠に打たれて辰姫の嫉妬は消え、清い心となる。
有名な「辰姫の髪梳き」の場面であるが、水から炎を生まれさせる程の辰姫の嫉妬は凄まじい。鬼気せまり凄艶である。しかし、作者治助は趣がある。 作者は、辰姫がこの嫉妬で破滅するのではなく数珠で打たれて元の清い心になるよう心を配った。そこが美しくはかなく哀れさを感じさせるではないか。女心の凄まじさとはかなげな哀れさを書ききっている。
おなじ髪梳きの場面でいうなら、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」のお岩も有名である。 お岩は隣人の邪な心から愛する夫を奪われる女である。髪からは怨みがしたたりおちる。嫉妬とともに怨みつらみがにじみでている。 凄まじさからいうなら「四谷怪談」であるが、辰姫の髪を梳く場面は全く違う。 辰姫の髪を梳く姿には優艶さがそこはかとなくにじんで誠に美しい。 自分の悋気を押さえながら、忍びながら、愛する人に想いを馳せてその緑なす黒髪を梳いていくのである。人間と人間との永遠の絆を求めようとする魂の美しさがある。 南北にはない幽玄さ人間主義が現れていると思う。
また、能は趣が全く変わった嫉妬をえがいていて面白い。 嫉妬と言えば言わずと知れた「葵の上」である。 六条御息所の生霊のシテが段々高まっていく気持ちを舞いであらわす。最後に扇を叩き付け、着物を脱いでひきかつぎ葵の上を暗黒の世界へ引きずり込む光景を表現して素晴らしい。
「思い知らずや、思い知れ、恨めしの心や、あら恨めしの心や、人の怨みの深くして、浮き寝に泣かせ給うとも、生きてこの世にましませば、水暗き沢辺の蛍の影よりも光君とぞ契るらむ、…」と謡う。
しかしここが能の能たる所である。 葵の上とはまるで関係ない蛍を追いかけたり、沢辺を見回す形で舞いを舞って表している。
明滅する蛍や、沢べの暗闇に御息所の心の深淵を覗く思いになるのである。全くここは白眉というものだ。素晴らしい描き方に心底感激する。
シテの謡う声、姿の美しさ、そこに能の真髄があるのではなかろうか。やがて御息所のシテはかぶっていた物をはねのけると、下からは美しい先ほどの面に変わって恐ろしい般若が現れる。しかし行者の数珠に打たれて解脱する。 この般若の面こそ嫉妬の面差しなのであろうが、これはやがて来るべき、悟りの道へ到達する過程を表しているように思う。
人間の心の中に巣くう嫉妬の念。オペラ、演劇、歌舞伎、能など、形式は異なるけれども、誰もが描きたい人間の底にあるおどろおどろした情念の世界なのであろう。そしてそれを見てなにかを感じる我々。嫉妬とは、人間と人間との永遠の絆を求めようとする魂のなせるわざなのかもしれない。
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