ずいずいずっころばし
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2005年07月07日(木) 文は人なり

「言葉は文化なり」などと言われて久しい。

最近、言葉、文に関わる人と交流する機会が増えて感じる事はアマチュアにせよ、プロの物書きにせよ滋味あふれる文を書く人は、文からにじみ出るのと同じように好人物が多く、嬉しくなる。
ユーモアと機知を愛する高雅な人、向井敏さんの文は気の利いた諧謔を交えていて実に胸がすく。しかも誠実で品格をそなえた本物の紳士である。しかし、筋違いの文学論や偏見などに出くわした時などは憤怒に燃え胸のすくような啖呵を切ってみせてくれる。
こうでなくっちゃとばかりに私は「やんや、やんや」と快哉を叫ぶのである。と言っても勿論ご本人様に私の声が届くわけなどもないけれど。
そしてまた、私が敬愛してやまない堀江敏幸氏の作品「いつか王子駅で」に至っては、その作中の文、島村利正の短編集「残菊抄」で、篠吉の胸中をとらえた文、
「篠吉の胸の中に子供心に似たほのかな狼狽が走っていくのが感じられた」
を引用し人の心の震えに光を照射し、“こうした「子供心に似たほのかな狼狽」を日々、感じ得るか否かに人生のすべてがかかっている”
と言わしめた堀江氏の言は随分含蓄があって「言葉」の深みについて十分咀嚼し反芻するにたる極上の言葉であると痛く感じ入るのだ。

さて一方、素人の文においても軽妙な語り口と小じゃれた警句を弄し、時には人情篤き部分をひょいと覗かせてくれる人などに出逢うと、もうすっかり「ほ」の字になってしまったりする。
さてもさても、「文は人なり」と称される恐ろしきものでもある。
言葉は魔物でもあることをゆめゆめ忘れてはいけない。
私なんぞは未熟で浅薄な人間性が露呈して大失敗をやらかすことがあるゆえ気をつけねばならない。『「言葉」に傷ついた』などとうっかり言ってしまいがちであるけれど、そう言う自分はどうなのだろうと振り返ってみる。無意識な「言葉」で人を傷つけている。「無意識」であるがゆえに罪は深い。

文章修行は人生修行でもある。
巷には「文章教室」「文章読本」などが売れている昨今、書き方のコツだけをすくい上げて、ある程度の文をこなせるようにはなるだろう。
しかし、「文は人なり」の如く、中身のない人間がこじゃれた文を、さかしらに書いてみたところで、虚ろなさみしさが漂うだけである。
文は書き方のコツでなく、生き方が問われるのである。
文はその人の人となり、いきざま、思考のありようが問われる。
心豊かに滋味あふれる文を綴るのは容易でなく一朝一夕のしわざではない。
もっとも、これは文だけに限らない。
一朝一夕で全てを了することはかなわない。
ただ、極上の音楽と極上の文に出逢えた日などはふと心に灯りがともる。
温かないっぱいのスープが凍えた体と心を温めてくれるように、一編の詩が数行の言葉が明日へと繋げてくれ、心に灯りをともしてくれる。
言葉は心のまんなかから出るとき初めて言霊がやどるのではなかろうか。
心のまんなかを如何に豊にするか。それがその人の豊かさに繋がり、言葉を発するとき、まあるく、広いやさしさが辺りを満たしていくのだろう。


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