暴かれた真光日本語版
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御み霊の中身について
>> おみたまの中身が呪符に変わったいたとか。 >このことについて、詳しく教えていただけないでしょうか。
真光の初期に出していたペンダントは、開けてはいけないという規則になっていたが、その気になれば自由に開けて中身を見れる物だったという。見るなといわれると見たくなるのが人の性、大概の人はこっそり見ているそうです。岡田光玉の出していたおみたまは、マルチョン印、乃至は、ちょん、を書いて聖鳳と書いてあったそうです。
それが二代目になってから、ペンダントがハンダ付けしたような全くあかない物に変えられたそうです。その開かないおみたまを持ったある四国の人が真光に疑問を持って、こんな物いらん、と念を込めたらペンダントがパカッと開いて中身を広げたら薄気味悪い字がごちゃごや書いた呪符だったそうです。 その話を聞いた家が、元真光の古い組み手だった方の家だったのですが、その方は岡田光玉在世時真光隊?の隊長も務めていたそうで真光の教義に詳しいのですが、その人も中身が呪符に変わっている事を知っていたそうでした。初代と二代目は霊系が全く違っているという話でした。
文明教団側に行った陽光文明研究会の中心メンバーだった人とも、この話した事が有るが、その話は正しいと認めて崇教の二代目ケイジュは(どうゆう根拠かしらないが)ヒマラヤの系統だという秘説を教えてくれた。
二代目ケイジュを霊的に導いた人物が居るという話も聞いた事があり、確か《東出さん》という名だと記憶しているが、その人の話を聞いた時の霊的な波動が悪かったな。多分、八大竜王の系統だろう。
真光を大本系とか伊都能売思想とかに分類するのが、根本的な誤りがあると思う。いい迷惑です。 はっきりいって八木派ですな。陽光子友の会時代の古い組み手だった「たま出版」瓜谷社長が書いた「無私の愛よ永遠に」の中に、真光の古い時代の話が回想されている。
私ももう亡くなったが、陽光子友の会時代の古い組み手だった女性から其の頃の話を聞いた事があるが、信者が百人位しか居ない頃の岡田光玉は、誰に対しても近づき易い大らかな人物だったという。
最後は何故ああなったかと云うと、岡田光玉の心の中に曇りが有ったという事しかいえない。
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心霊医学会
岡田光玉は昭和三十三年結成された岡田道一の主宰していた「心霊医学会」の理事を務めていた。岡田道一の著書、「霊癒の科学」には賛同者として岡田聖玉の名が掲載されている。
金井南龍主宰、神理研究会「さすら」 その一 金井 石田先生ネ、、、、岡田○○ね、、、話が横に飛んで済まないのですが、何千から何万という具合に信者が増え出すと、、、信者が二ケタか三ケタ位のとき、酒席で一緒に軍歌など歌ったときには、嘗っての軍人のときのスナヲさを裸になってサラケ出しましてネ、、、コイツ、、、好いとこあるわい、、、なんて思ってたんですか、、、いつしか「生き神様」の「積分人間」になって了うと、無学文盲ならソレで押し通せますが、彼は高級将校で理性のカケラがあったでせう、、、それで、、、絶対自己の矛盾撞着を感じていたんですネ。 その統一の場とは死でしたよ、、、
石田 馬鹿と気狂い、、、は長生きすることに、、、
その二 世の中宗教裁判位六ヶ敷しいものはない。 ということを奥弁護士は其の体験からして云われている。 氏の懐旧談は中々蘊蓄に富んで居るのである。 二木博士(岡田道一の間違い)創設の心霊医学会に奥さんと家内(金井)さんは好く理事としてその名の如く隣り合って座ってたものである。
「彼、わしの顔は、人間であるならば、マトモに見られたものでないのに、、、」「狐霊(どうぶつ)だからシャーシャーしてますよ」
これは岡田光玉理事のことについての二人の囁きである。 物価統制時での岡田氏の違反や、彼の女性関係での破廉恥行為に対する数度の裁判沙汰のとき、奥弁護士は岡田の弁護を、両人とも熱海の救世教での顧問弁護士と支部長、知己(チカヅキ)以来、岡田氏の裏切り独立営業での度重なる裁判沙汰で、引き受け、岡田の戸籍を汚させなかった。 (原文、漢字の誤りの他、そのまま)
>不勉強で申し訳ないのですが、「ヒマラヤの系統」「八大竜王の系統」「八木派」という言葉について、解説していただけないでしょうか?
返事が遅れました。 申し訳ありません。 「ヒマラヤの系統」は前に書いたように私にも判りません。 聞いただけの話ですから、、、 「八大竜王の系統」要するにエログロナンセンス 「八木派」大本開祖三女福島久の系統を指し、金毛九尾の霊が懸かっていた。 動物霊に人間が頭を下げるなという事です。
> > 金井南龍主宰、神理研究会「さすら」この文献についてもうすこし詳しく教えてくださらないでしょうか。国立国会図書館などで閲覧できるでしょうか。 「さすら」は国会図書館に架蔵されていますが、あの文章が何年何月号かは明かしたくありません。 資料が破壊隠滅される可能性が有るからです。
私が引用した部分が、総てをそのまま引用していますので御参考に下さい。
奥弁護士は、奥一夫といい救世教の顧問弁護士をしていた人でした。 既に故人ですが、東京弁護士会の副会長をしていた事も有ったようです。
心霊医学会は今では存在しないようです。 岡田道一と二木健三が中心になって発足したようです。岡田道一がずっと理事長をして、二木健三が初代会長、二代目会長が小川勇でした。
>「さすら」は神道研究の学術誌で、たとえば國學院大學の図書館にも蔵書があります。このような書誌にこのような記事がのるとはおどろきです。 >「さすら」は、東京の早稲田にある「日本心霊科学協会」で閲覧出来ます。一部については、貸し出しも出来ると思います。
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八大龍王
八大竜王は元々は仏典に登場する神格で各地に祀られている。大本の流れで神道的に見た場合は、どうも霊的にヤマタノオロチの系統とされている節があるようだ。大本で初めに八大竜王を祀ったのは、兵庫県猪名川町の肝川支部で地元の農夫の妻、車小房(金龍姫)が神懸かって八大竜王を祀ったの最初だが、肝川という土地自体が元々源氏のふるさと多田神社の龍神信仰が盛んな土地だったという因縁が強いと思われる。大正三年肝川開きが王仁三郎によって為されたのである。肝川支部が出口直の三女福島久との関係を強めていったのが原因で、矢野祐太郎が入って昭和九年神政龍神会が結成されていくが、昭和十一年三月二十三日治安維持法適用で弾圧を受け崩壊し、矢野祐太郎が獄死したりした事もあり、戦後肝川支部は大本から独立して大国之宮として独自の展開をする。 昭和三十六年矢野新(シン)の努力で神霊聖典が復刊されて、岡田光玉も六甲の矢野新(シン)の住んでいた家に二度ほど訪ねてきたという。岡田光玉は肝川龍神にも顔を出していたという話である。
大本に於いても、肝川支部が戦前から大本本部の意向と違う流れに進んで行ったことの関係もあったか、昭和九年愛知県春日井の玉野川沿いの定光寺という土地に八大竜王を祀り直した経緯がある。大本関係では、八大竜王は二箇所祀られているのである。
大本教学上は霊界物語五十七巻から六十巻が伯耆大山の麓、皆生(かいせい)温泉に於いて口述されていて、八大竜王のタクシャカ竜王の改心の物語になっている。 タクシャカ竜王は海王星から飛来したこの世の悪霊の大元とされていて、オロチ、邪鬼、九尾の狐、三体の邪霊の大元の邪気とされている。王仁三郎はヤマタノオロチが退治されたのは伯耆大山だとしているので、因縁が深い部分である。
私の理解では、良く仏像の中で動物に乗っかった仏像が有るが、動物で表される力(未浄化の心)を、コントロールするすべを示していると考えている。心理学上のイドのような物だと考えている。 霊界物語に於いて、タクシャカ竜王が封印されていた山は、アズモス山とされていて伯耆大山の事とされているが、これは富士山でもある訳である。 素盞嗚尊や大国常立尊が祀られる山に最大の悪霊が封印されていた訳であるから、逆説的な真理といえるが、私は龍神という存在は人体のクンダリニーのようなものと理解している。(龍神は霊的実在として存在するが、これは一つの理解としての解説)
昭和二十二年正月に岡本天明が正味三十分ほどで書き上げてしまった「三貴神像」は天照大神、素盞嗚尊、月読尊、三貴神が八大龍王に乗っている図相である。
龍神神懸かり(ピンからキリまで有るが)の特徴は、大体に於いて酒飲みで色欲に溺れ易いという特徴がある。
> 八大竜王と救い主様のことについて「心は宇宙の鏡 成星出版」という本のP86に書いてありますが、この本によりますと八大竜王が救い主様につくことにより手かざしができるようになったようです。この本の内容が正しいかどうかは調べようもありませんが、八大竜王についてもう少し詳しく教えてください。
この手の話は、岡田茂吉に琵琶湖の黒龍(国祖、国常立尊の事)が憑いた。という話から採ったような気もするなあ。まあ、確かに岡田光玉も龍神系の神懸かりだったことはわかるけど、、、 だいたい、肝川神啓の中に高津玉大神なる神格がある。 世界経済担当といいフランスと榛名山が領域という。岡田光玉が金銀財宝をジャラジャラ身に付けていたのを思い出す。 典型的な動物霊の仕業ですな。
高津玉と光玉、言霊的な意味は同じです。(津は助詞、高はコとかカは、古語で太陽の事を指す。)(光玉には、琥珀の玉(ぎょく)という意味も有ったようだけど)
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ラーム
今日、古い真光幹部だった人から聞きました。
ラームという人は、インドからアメリカに渡ったインド人のヨガ行者だそうです。「おみたま」になっていたスイスの高級腕時計は光玉がいつも見に付けていた物だったそうです。その人は、ラームのおみたま(ペンダント)は見た事ないそうです。
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高山が日本の中心
これは戦前巨石文化を研究していた退役軍人の上原清二という人が飛騨高山付近の巨石を調査して、竹内文献の研究者、酒井将軍等を連れて来て盛んに調査していたのです。 戦前の話です。戦後、昭和二十六年頃から地元出身の霊能者の霊示が元になって大本教にいた池澤原次郎という人物が中心になって飛騨の位山を開こうという気運が強くなったのです。 それには、上原清二も参加していたんですね。昭和二十九年と三十年に位山を開く祭典が執り行われています。 この話は昭和二十九年の中外日報に書いてある。 真光が高山の事を言い出したのは昭和四十年頃からだから十年早い。真光如きにはオリジナル等何もないという事である。
ついでに岡田光玉が苦労して九州の幣立神宮を突き止めて参拝したという話があるが、これは如何もうそ臭い。 幣立神宮の宮司、青木蘇陽は昭和二十年代後半から中外日報の常連ライターであり、この青木という人物は自己の所管する幣立神宮の宣伝もよくしていたし、昭和三十年頃には幣立神宮の宣伝をした赤い色の小冊子を発行している。 幣立神宮の「五色人祀り」なんて霊媒に語らせた事が起源になった全く根拠のない絵空事であった。
宗教マニアの岡田光玉はそれを知らなかったとは考えにくいのである。
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