暴かれた真光日本語版
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2004年04月14日(水) 090 gn

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浮霊現象について

前に一度書いたと思うけど、真光の教義(方向性)事体に霊動《浮霊》と言います。《浮霊》、霊が浮かび上がる事を志向している教団であるという事実。真光は《浮霊》を、人工的(意図的)に引き起こそうとしている訳です。

この岡田光玉の《浮霊》への志向性が救世教を破門された理由で、人間の精神に対して非常に危険な方向性だったんですね。「祈言集」の《ゴクビジッソウゲンシカイ》なんて濁音だらけの祝詞は、普通の神道では在り得ない言霊として響きが汚いものです。態とこうゆうのを使用して人を《浮霊》させるのです。この事を私に教えてくれたのは真光の幹部だった人ですよ。

《浮霊》とか似た現象は気功やブリージングセラピーでも起こりますが、ブリージングは私もやった事あるが隣の人が蛇みたいにのたくっていた。 真光信者なら蛇の霊が憑いていると言いたげな感じですが、ただ副交感神経?だかの問題だそうです。(昔はこの手の情報に詳しかったがもう卒業しました。)暗示を受けやすい状態だから、前以て霊の憑依とか言い聞かせられると、その様な反応をするだけです。ただし霊的存在というものは確固として存在します。 霊的存在として動物霊という存在はありますよ。

霊動《浮霊》について補足しますと、本来は霊動《浮霊》=《悪》という訳ではありません。これらの現象は民間医学でいうが如くカタルシスの一種といえます。例えば野口整体の活元運動なんて、霊動《浮霊》に良く似ています。 これには、創始者の野口晴哉が救世教出身というから当たり前ともいえますが、活元運動で霊が憑いたなんていいませんよ。

霊動《浮霊》に付いては、人間が風邪を引くのは体の調整作用だと言われますが、霊動《浮霊》も交感神経の調整作用の一環と考えています。この手の現象が起きるような場合が想定される時は、シッカリ対処できる人間がいるかどうかという事にかかっていると思います。

>「霊動」は濁音の祝詞が起こす「暗示」と関係があるとおっしゃっているように受け取りますが、それでしたら暗示とは怖いものですね。人を一生縛り付ける。確かにゴクビ云々の語韻はゴクツブシといったののしり言葉などを連想させますが。濁音て、詩でもそうでしょう?

「祈言集」は今手元に無く、その《ゴクビジッソウゲンシカイ》は漢字では極微実相、後は覚えていません。
濁音だらけの祝詞なんて・・・国文学や神道学にある程度の関心が有る方ならば、普通納得される筈ですよね。 真言や呪には有るけど、何処の神さんが懸かっているのやら・・・

>この事を私に教えてくれたのは真光の幹部だった人ですよ。

この方は、真光隊の隊長だったかな務めていた人で光玉死後暫く後に脱退した方なので、《ゴクビジッソウゲンシカイ》の話を、今の幹部が知っているか?というのは私には判りません。

>「霊動」はその動作だけ観察したら、薬物中毒者によくみられる現象と同じです。

上記の内容より私はそうは思いません。 本来はセラピーの一環だったと考えます。

>野口整体って、こんにゃく運動の野口先生ですか?

その人です。野口整体と救世教の関係は余り知られていないようです。

>しかし
>>人間の精神に対して非常に危険な方向性だたんですね。
>ということで、光玉、救世教破門の原因が霊動への執着、関心。

そもそも、岡田茂吉は大本に居た時は神霊実験の研究等をしていた。昭和二十年代、始め救世教主宰で物理霊媒、亀井三郎の実験会の主宰等も有りましたが、救世教の浄霊をしている場に於いて憑依現象が度々起こり、弊害が多いために昭和二十六年頃に教祖岡田茂吉によって救世教の場では神懸かりは禁止されたのです。(天国の礎に確か論文が有ったかな?)

当時、例外として神懸かりが認められていたのは、京都のイズノメ中教会の多賀夫人で、この夫人の取り次ぐ内容が機関紙の地上天国に掲載されていたのです。それに触発されて何人か神懸かりを続けていた人物が居り、岡田光玉も止まなかった一人で遂に破門されたというのが救世教で伝わる話ですね。

当時もう一人神懸かりを止めなかった人物がいて、兵庫県の豊岡に居た池内一次という人物は岡田茂吉から直々に審神を受けて本物と認められたそうです。(岡田茂吉没後、独立してひかり教会を設立した)当時、岡田茂吉は総ての神懸かりを否定していなかったという事実は重要です。


以前私が野口整体と野口体操の創始者は同一人物等良く確かめもせず頷いていましたが、後でよく調べてみたら別人でした。

野口整体 野口晴裁

野口体操 野口三千三
でありました。 いい加減な事いってスイマセン。

フト思ったんですが、此方の皆さんは「教祖誕生」上之郷利昭 新潮社刊という本のことはご存知ですか?  何処かの文庫本にも入っていたが、出版系列からして新潮文庫?この中に岡田光玉の伝記資料が収められています。光玉の家族(妾じゃないよ)とか、古い知人からも取材したようです。 以下引用すると、

しかし光玉はこの頃から既に、宗教の方には相当身を入れていたようである。「神道、仏教あらゆるところを模索して歩いた」と、彼は後年、親しい人たちに漏らしている。として、生長の家や救世教、大本に関わっていたらしいと記述あり。 大本の話は、私自身が大本の人から岡田光玉が大本の講座を受講に来ていたという証言を聞いた事がある。あまりソースとしてはこの本の事が話題に上らないので書いてみました。

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愛人疑惑

今日仕入れた話は、ケイジュが光玉の愛人だった事を如何して当時の組み手たちは判ったのですか?と尋ねたら、

《だって、見たそのまんまだもの。》

二人の中を隠してなかった訳だ。なかなか凄い人達だ。

更にケイジュは光玉死後、日陰葛(ひかげかずら)の愛人の身で操をたてて暮らしていたのかと思いきや、早速お付になったT塚という書道の大家とくっついたというのです。こんな酒池肉林を目の前で見たら、普通の神経の人間なら直ぐ信仰を止めるでしょうな。

光玉死後の分裂騒動というのは、光玉と陸士同期の人間達(その玉がケイジュ)と関口氏の間の権力争いであり、教義不在の金をめぐる争いであったという事実がハッキリしました。この話を教えてくれた方も、何時もはあまり真光の話をしたがらない理由が今日判りました。

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生長の家

岡田光玉が生長の家信者だったらしいという伝見は、前記「教祖誕生」の中に記述があり、生長の家の神示と真光の神示を読み合わせて見れば一目瞭然です。七つの灯台の神示と雰囲気がソックリです。光玉の残した「御講話集」を初めて読んだ時、エドガーケイシーやルドルフシュタイナ―の名が出てきたのには驚きましたが、とても当時の軍人の知的レベルを超えています。 此の辺の情報も生長の家から持ってきたようです。 

光玉、最後の御神示の中《くちゃくちゃ》というのは、真の道の大峰老仙という神霊の語り口調です。 その事実は宗教法人真の道刊行の「真の道神示」を参照すれば歴然です。

前にも指摘しましたが、真光の「御聖言」は真の道の大峰老仙という神霊の神示の口調を改竄したものであるという証拠です。(「御聖言」の文語調の部分は生長の家の神示の口調に由来しています。 これもBOOKOFFの100円コーナーで「生命の実相」を参照して貰えれば一目瞭然です。)

光玉とケイジュは言霊の研究会(真の道協会?)で知り合ったいう話が残っているそうです。 何方か引用していた資料ではケイジュは大月の出身とか、(戦争中知り合ったという話とは合いませんが)実は昭和二十七、八年頃、甲府市に真の道宗像道場という場が開かれていました。 甲府市に真の道宗像道場は、昭和三十年の教団分裂後に八幡博堂側についていました。 大月と甲府は近いですなあ。

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瓜谷社長の証言

岡田光玉に対する初期の気さくで大らかな人物という評価から、後年のブリキを切り抜いたような勲章をぶら下げてとても元帝国軍人とは思えないような歯をむき出した薄笑いを浮かべた教祖御真影になった姿とはどうも一致しない。

それについては、たま出版に瓜谷社長は初期の真光組み手であり、光玉のとの経緯を「無私の愛よ永遠に」平成二年刊に於いて書き残している。

(瓜谷氏の超宗教・超宗派への道の提言に対して)
以下引用

〔前略〕顕著な真光の業の実績などにより信者が増えるに従い、やはり通常の宗教セクトと同じような団体を形成し、数ある新興宗教団の一つとしてひたすら信者数を増やすという量的拡大の道を歩み始めた。

間もなく世界真光文明教団という麗々しい名称の下に宗教法人の認可が降りた。 そしてしばらくは世田谷区にある自宅兼事務所で布教活動を行なったが、本部になる殿堂の建立の計画がされ、東横線沿線の格好な土地が求められ、その建設が始まった。 その着工に先立つ地鎮祭の時、私も妻もその式に列席した。 式の途中、何故か物凄い突風吹き、周囲に張られた式幕が風で吹き飛ばされそうになった。 妻はこの余りにも強烈で、突然の風が、何かの予兆だと言い、本教団の前途が波乱に満ちたものであることを示すものと私に語った。

そしてこの予言は的中した。 本殿ができたのが昭和四十三年三月、その後教団自体は大いに伸びたが、初代教主O師(光玉の事)はその六年後、昭和四十九年六月、この本殿で、突然の急死をしてしまった。 その直後から後継者をめぐって二人の人物がそれぞれの正当性を主張し譲らず、遂に裁判まで持ち込まれ、その決着に五、六年を要した。 その結果一方が名称を変え、同じ教義の下に、同じ初代教主をいただいて、宗派活動をするようになり今日に至っている。 間もなく正式名称継承した方の教団から、第三代を名乗る人物が現われ、別派をつくり三つの教派に分裂してしまっている。

思うにこれはあらゆる宗教セクトが陥る宿命的な運命である。 宗教の時代はとっくに終わっているのに、現世的な名誉や財産に捉われ、神の経綸を説きながら、自らはそれを実践できないでいるこの悲喜劇が多く繰り返されている。 ああ何と悲しむべき現象であろうか。

この立派に殿堂が建つ前後よく妻と語りあったものである。

「これからの人を教化する宗教あるいは精神運動の場はすべからく幕舎でなければならぬ」そのように神(妻の)から授かったと彼女は何度も私に語ったことがあるが、私もその通りだと思った。 こういう点では不思議なことに、二人は必ず意見が一致し、何の葛藤もなくお互いの心中を語りあうことができた。

この本殿の建立が始まった頃、本来なら幕舎であるべき所なのにという思いと、万時に宗教セクトをますます強化し信者の拡大に走るその姿と、主神の代行者よろしく自らを特別神聖化して行くO師(光玉の事)の行方に、これではついていけないとの思いがつのった。 そしてある日二人で世田谷の本部に伺いO師(光玉の事)に面会した。 その時二人は信仰を離れることを決意はしていたが、いきなりそこまで言うのは、多年導きいただいた教主たる師に礼を失すると思い、その時は取りあえず、道場長、その他幹部的な役をいただいていることを辞したい旨お願いした。

師は顔色を変え、いつもの温顔がきびしくなった。 師は静かに信仰をやめかねない二人の態度に、もしこの信仰を去れば、それなりの罰や祟りがないとは言えない。 またこれから何かにつけ神の庇護を受けられなくなると、翻意を促すように告げた。 厳しい一瞬であった。 入信間もなく訪れた二階にある神殿のあるご本部の日本間である。 師の言葉は、決意の決まったわれわれ二人には空しかった。 しかし温情ある師から受けた現世的恩義は忘れることはできない。 それは感謝せねばならないし、その気持ちは十分あった。
そして師は、その豊かな霊感を見抜いて、妻に、もし将来あなたが、霊的な指導者として独立するなら援助は惜しまない。 だからもうしばらくここで修行を続けなさいとも語った。 しかしそれは妻が最もなりたくないことで、心中はとんでもないことと思ったが、その場ではその過分なお言葉に、最大級の謙遜な気持ちをこめて、師にその好意を感謝しつつも、はっきりご辞退申し上げた。 このような妻には人一倍強い霊感、霊能を持っていながら、これで信者を集めたり、これを仕事にするようなことは全然念願になかった。 やはり本質はあくまで精神世界的な、一求道者であった。 その意味では二人は文字通り、同じ道を歩む互いにかけがえのない同志であった。

このような一幕があって、折角本部殿堂ができたというのに、二人は次第に足が遠のいていった。 どんな立派なものであろうと、いや立派で堂々たる殿堂である程、二人には何の魅力もない空しいものしか思えなかった。〔後略〕

なんか夫婦愛について記述が長いが、奥さんの追悼集という意味合いが強い本なので仕方がない。

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