暴かれた真光日本語版
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2003年11月25日(火) 038 pseudoscience

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別冊歴史読本 特別増刊14《これ一冊でまるごとわかる》シリーズ2 『「古史古伝」論争』新人物往来社 1993.8.12発行

資料発掘 『天津教古文書の批判』(狩野亨吉著)
かのう・こうきち(1865-1942)哲学・思想家。安藤昌益を発見、紹介。京都帝大文科大学学長。

〔解説〕「天津教古文書の批判」をめぐって (P362-364)
鈴木 正:名古屋経済大学副学長・日本思想史

 大本救や天理教への宗教弾庄につづいて竹内巨麿らが昭和十一年二月十三日に検挙されたのは、いわゆる第二次天津教事件である。ここに再録された狩野亨吉の「天津教古文書の批判」は、この年の『思想』六月号に掲載されたものである。
 まず、論文執筆の背景からのべよう。緒言にみられるように狩野が天津教の存在を知ったのは、某海軍大将の紹介で来訪した二人の信者から宝物の写真を贈られ、茨城県磯原にある「皇祖皇太神宮」への参詣を勧められた昭和三年五月末のことである。これは狩野が「安藤昌益」を発表した直後の時期にあたる。このときすでに狩野は写真を一見して、その原物の欺瞞性を感知している。多くの名士を誘って百万円の寄付金を集め、神奈川県柏見に宝物の奉安殿を建設しようとする動きを探索中であった官憲は、別の詐欺事件で検挙された岸一大の『古事記真釈』のなかに天津教の宝物(古文書をふくむ)の一部が収録されていたことから神代文字の研究家・前田惇を喚問したことに端を発したのが昭和五年の第一次天津教事件である。このとき竹内は十二月八日に所管の松原署にひっぱられ、翌朝釈放されている。当時、このことを特にスキャンダラスに扱った『東京日々新聞』の多量の関係記事が現代霊学研究会編『神代秘史資料集成』(一九八四年)に収められている。
 このあとも彼らの宣伝活動はつづけられ、古文書に記されている日本史の途方もないデタラメな書きかえが企画されていた。そうした宣伝拡大のなかで、この論文は執筆された。つぎにその前後の状況にふれておこう。
 昭和十年八月に『日本医事新報』から天津教古文書の歴史的価値の調査依頼があった。その解答の一部は、神代古文書に関する諸文献の出版と所在を闘う「北海道エイチ生」への答の形で、島田筑波の署名がある「天津教の古文書は所謂インチキもの」が同紙九月二十一日号に掲(の)っている。
 最初に書いたように第二次天津教事件で検挙された竹内ら五名は昭和十一年二月十八日に水戸地方裁判所検事局に送られ、主謀者の竹内は「不敬、文書偽造行使、詐欺罪」で公判にかけられた。のちに東京控訴院第五法廷にもちこまれ、その第四回公判(昭和十七年十二月十四日)では、狩野は橋本進吉東大教授とともに証言に立ち、本論文の要旨六項目について意見をのべ、鑑定意見を『思想』に発表したのは「その蒙を啓くため」だとのべている。その点がとくに重要だと私はおもっている。
 最後に論文の価値についてのべよう。官憲は、この事件を主として不敬罪で訴追しているので宗教弾庄の一環として回顧されることに一面の真理はある。佐治芳彦の『謎の神代文字』(一九七九年)は、これを極端化して狩野論文を弾圧への協力面に力点をおいて否定的に評価しているが、それは官憲と一体化させた独断による読みそこねというほかない。
 狩野は天津教をほかの類似宗教にくらべてあくどさが少ないとしながらも、「古文書を証拠として神代百億万年の歴史を展開し以て皇室の規模を壮厳するに勤める」点では批判を許さないかたくなな態度を妄想と断じ、そこに批判を集中している。それぞれの文書の文体、書体、内容(時間、地理、人物、事件)について厳正に吟味したうえで、近年の偽作と断定している。その論証・実証の過程については、直接、本文を読んでほしい。ヘタな要約で読者の興をそぐようなことはしたくない。
 それにしても二、三の見事な例はあげておきたい。まず平群真鳥(ヘグリノマトリ)真筆を神代文字の記録の翻訳であると称する天津教の主張をくつがえし、実は神代文字之巻は平群真鳥の記録の翻訳であることを見破った箇所、それに神代文字解読の目がさめるような鮮やかなプロセスである。私は第五と第六で扱われた二つの文書批判を一番おもしろく読んだ。

 古史古伝を研究するなら『上記』(ウエツフミ)ぐらい読むのが当然の手続だと評するむきもあるが、狩野は渡辺大濤から神代文字の字引がある、と聞き、「自分の寡聞を恥じる」と素直に認めている。この卒直な態度こそ真の学者の初心ではないか。七十を越えた老学者が奇怪な神代文字と格闘し、拾いだした異なる形をした四十四の記号を五十音ではないかと解いてゆく白熱が伝わってくる。この推理の過程を再現した文章が後世にのこったことを、私はむしろよろこんでいる。
 また人類の棟梁である天皇という天津教の思想に用いられた「五色人」の由来の種あかしや「宝骨像神体」(天皇の遺体を風葬にし骨を粉にして練ってつくった人形)に思想の変態性と頽廃性をみる観察など、狩野の見解は、そのように判断するのが一番自然だという相対的で常識的の思想に立脚している。彼の批判はすべて証拠の真贋にかかわるのみで、鑑定は一種の知的ゲーム(見破れなかったら本物として通用するのを防ぐための競技)である。狩野にとって不敬は主要な関心でなく、それは官憲の次元のことである。知のゲーム感覚にこそ、この論文の真価をおくべきであろう。

【解説】
 「天津教古文書の批判」は岩波書店の『思想』昭和11年6月号に掲載され、戦後に単行本として岩波書店より刊行された『狩野亨吉遺文集』に掲載されている。現在は、Web公開されている。
http://redshift.hp.infoseek.co.jp/scilib.html
 「S教M光」誌平成15年8月号73-75頁に、京都大学文学部で日本史を専攻する学生が、「『歴史迷信』を打破するために日本史学会で影響力の大きい京都大学受験を決意したのです」などと豪語していた。橋本進吉氏の『国語学概論』や、狩野氏の『天津教古文書の批判』といった、岩波書店発行の学術書を打破できるものならしてみたまえ。岩波の書籍は全国各地の図書館に収蔵されており、最近ではハンセン氏病患者に対する差別的表現があったとして、問題書籍を回収するという良識ある態度をとった。古史古伝専門の八幡書店や日本文芸社とは、およそ次元が異なる。「御神意成就に役立ち得る歴史研究に邁進し、また、研究者のお導きに精進させていただきたい」とこの学生は述べているが、馬鹿にされるだけである。



「S教M光」誌平成十五年五月号 10-33頁
平成十五年四月度月始祭ご教示

(P21-22)
 更に、絵文字とは違って類似の古代の紋様的な文字形体、或は明らかに文字であろうとされる岩刻文字、いわゆるペトログリフは一九七〇年代に入って日本をはじめ欧米諸国において発見されるようになりました。ペトログリフの研究は緒についたばかりでありまして、今後の学際的な調査が待たれております。
 この絵画文字とは次元の異なるものに「神代文字」があります。
日本では、漢字伝来以前に既に存在していた文字であります。「その古さは想像を絶するものである」と示されております。
『釈日本紀』には、「和字の起源は神代にあり」と記されております。ヒフミ文字やアヒル文字、更には『上記』序文の五十猛命の五十音図(字)、象形文字などがあります。神代文字は大変種類が多いのです。今日のカタカナの本になっておるものであります。
図2 アヒル文字

(P26)
 中国で最も古い文字は、亀甲や獣骨などに刻まれました。それを「甲骨文字」と言います。今より三千五百年前のものが中国で発見されております。

P184-191 「ハングルが呼び起こした神代文字の記憶」――十五世紀のシステム文字・ハングルが、はるか昔に埋もれた聖なる文字をよみがえらせた……
  中島 渉 (作家)




<大いなる文字>
 日本では世阿弥元清が81歳の生涯を閉じ、アルバニアではスカンデルベクの指導下でトルコに対する反乱が勃発して独立政府が樹立された1443年、朝鮮半島でひとつの文字が“創案”され、その言語システムが“編纂”された。
 すなわち李氏朝鮮第四代の王・世宗(セヂヨン)による国字――<訓民正音>(フンミンジョングム)として1446年に公布―-がそれである。世宗という言う強大な権力によって制定され朝鮮国字は、子音字母が17(現在は14)、母音字母が11(現在は10)からなる音素文字だ。
 当時までに朝鮮半島は大陸の豊かなさまざまな文化を享受していた。そのなかには同じく音素文字であるパスパ文字やモンゴル文字もあった。訓民正音はパスパ文字やモンゴル文字の原理にならって考案されたと考えられる。
 進化した――いわば文字の極北にするとの声もある朝鮮国字だが、もっとも、制定された李氏朝鮮時代は正字である漢字に対する民間文字――<諺文 (オンムン) >であり、あくまでも従の文字であった。
 それが主の文字となるのは、1894年の甲午改革によって公用文にも採用されるようになってからのことだ。この改革は、じつは日本という他国からの外圧による、甲午農民戦争を契機に出兵した日本は、日清開戦の口実として朝鮮近代化に者手、さまざまな改革法令を発令した。
 日本資本主義進出の道を広げた甲午改革によって訓民正音が主の文字となったのは、なんとも皮肉な現実だ。この頃になると訓民正音は<国文>と呼ばれるようになり、さらに日本の完全統治下に入ってからは<ハングル>という名称が与えられた。
 ハングルとは、<大>を意味する古語<ハン>+<文字>を意味する<クル>――であり、すなわち<大いなる文字>という
 この大いなる文字ハングルが、日本にじつに不思議な形でもって伝えられている。<阿比留(アヒル)文字>――神代文字の代表的なものとして知られる異端の文字がそれだ。東京の日枝(ひえ)神社にも、阿比留文字で書かれた神号額が掲げられていた。
 ハングルと神代文字……その奇妙な関係はいったい何を意味し、その背後には何が隠れているのだろうか。

<謎の阿比留文字>
 阿比留文字は阿比留草文字とともに、対馬のト部・阿比留(あびる)家において発見された。江戸後期の国学者である平田篤胤(あつたね)は阿比留文字を神代文字の楷書体、阿比留草文字をその草書体としている。また篤胤によれば楷書体である阿比留文字は肥人之字(肥人音)であり、日本固有の文字である。
 篤胤は文政二年(1819)に著わした『古史徽開題記』の春之巻のなかに、「神代文字の論」なる一節を設けて、幻の文字をめぐる特異な論理を展開する。
 篤胤は述べる――『古語拾遺』に「上古之世未有文字」とあるが、『日本紀私記』や『釈日本紀』に散見される異体文字をどう理解したらよいのか、それらこそ神代文字ではないのか。空海の製(つく)った以呂波(いろは)文字にしても神代文字の書法を用いたのではないか……。
 本居宣長と並ぶ国学者であった篤胤は、同時に鬼神学・暦学・易学・医学・数学にも通暁する博学者であった。広範膨大な知識を駆使して、彼は歴史の闇の彼方――神代文字の深層へと迫っていく。
  『古史徽開題記』において日本に“漢字以前の文字”が存在する可能性を示唆した篤胤は、その後およそ五年を費やして古文字と伝えられる文字群をフィールドワークしてゆく。彼のフィールドワークはそして、文政七年(1824)に著わされた『神字日文伝(かむなひふみのつたえ)』に結実する。
  『神字日文伝』に「日文四十七音(ひふみよそちまりななこえ)」として紹介されたのか阿比留文字であった。この阿比留文字はハングルに、阿比留草文字は梵字に似ている。かつて吾郷渚彦氏はこの二種類の異体文字について、篤胤の指摘について、次のように解説された。
「篤胤は、アヒルモジを肥人之字(または肥人書)、アヒルクサモジを薩人書と記している。彼は生存中、豊国文字を知ることがなかったので、『神字日文伝』において、この両種神字こそ、わが国固有の文字として、大いに強調し、その存在を力説した。
 けれども篤胤が、アヒルクサモジをアヒルモジの草書体と見なしたことは、彼の瑕瑾として訂(ただ)されなければならぬ。
 アヒルモジは諺文(ハングル)系にして、明らかに北方大陸的陰影をもち、アヒルクサモジはヒリピン古字に近く、南方諸島的色彩に富んでおり、まったく別個な成りたちの古字なのである」(『地球ロマン』誌復刊5号/「神字と言霊――コトタマの影を追って」より)
 阿比留草文字がフィリピン古字とどう似ているのか確認するほどの知識は持ち合わせていないが、篤胤か楷書体とした阿此留文字かハングルに酷似していることは解る。ハングルと阿比留文字とのあいだには、どうやら深い闇が横たわっているようだ。
 また吾郷氏が指摘された豊国文字は山の民サンカか伝承した文字で、『上記(ウエツフミ)』に登場することで知られる。豊国文字――これまたスリリングな歴史の解読作業をもたらしてくれる文字なのだが、それに関してはいずれの機会に委ねたい。

<神代文字否定輪>
 地図を広げてみると、阿比留文字を伝える対馬は、九州と韓国を結ぶちょうど中間地点に位置していることが判る。そのような場所にハングルに似た文字があるということは、単純に考えても、少なくとも対馬と韓国とのあいだに交流の歴史が存在したことを物語っているといえよう。
 事実、対馬は古代から、大陸およぴ朝鮮半島と日本との交通の要衝であり、江戸時代には朝鮮との交流が許可された唯一の地域だった。対馬に伝わる風俗・風習は、日本文化の基層を考えるうえで重要な鍵となるものが多い。
 ところで1940年、韓国・安東の旧家で一綴りの木版本が発見された。そしてそれこそが『訓民正音』の唯一の伝本であった。『訓民正音』木版本の発見によって、それまで伝説に包まれていたハングル成立過程の一端が明らかになっていく。
 ――母音は天地人を象(かたど)り、子音は口腔内の舌の形態を象っている……ハングルはきわめて合理的な文字体系であることが証明されていった。
 それまでも上代特殊仮名遣いを解明した国語学者・橋本進吉らによって、上代音韻論の立場から、阿比留文字=漢字以前の和古学とする神代文字論は否定されてきた。さらに木版本発見によって否定論は拡大・加速する。つまり「阿比留文字はハングルの偽作である」というわけだ。しかし、ほんとうに阿比留文字はハングルの偽作なのだろうか。
 木版本発見は神代文字否定論者を色めき立たせた。だが、阿比留文字をもって「漢字以前に日本固有の文字が存在した」とする篤胤の主張が崩れたとはいえ、阿比留文字そのものの存在までが根底から否定されたわけではない。阿比留文字――それははたして何なのか。
 たとえば、こうは考えられないだろうか。
 ――北部九州は速く古代より朝鮮半島と交流を密に展開した地域だった。その中継地点である対馬も、当然のことながら半島からの風を正面から受けた。というよりもむしろ、北部九州―対馬―朝鮮半島は共通の文化圏内にあったのだ。
 だとするならば、ハングルに似た文字が対馬に伝えられているのは、きわめて自然ななりゆきというべきであろう。問題はハングルに酷似した阿比留文字の解読方法にあるのではないか。
 否定論者は否定の根拠を「阿比留文字が五十音で構成されている」ことに求める。そしてそれは、篤胤や他の神代文字論者も主張するところだ。ほんとうに阿比留文字は五十音でもって構成されているのだろうか。もしも五十音でなく、もっと多様な音をも含む文字だとすると、「五十音だから上代の文字ではありえない」との主張は意味をなさなくなってしまう。
 また、こんなふうに考えを進めることはできないだろうか。 ――言霊(コトタマ)への信仰とともにわが祖(おや)たちは、文字に対しても神秘的な呪力を感じていた。聖なる空間・場所にまつわる護符が必ずや奇怪な文字によっていることからも、それは了解されよう。
 文字に対する信仰。ハングルのごとくシステマティックな文字が出現したとすれば、彼らのあいだにやはり素朴な信仰心が発生しても不自然なことではあるまい。
 しかし……かりにそうだったとしても、ハングルの成立時期と阿比留文字の成立時期をめぐる問題は解決しない。超古代なのか、それとも十五世紀以降のことなのか。

(中略)
 すなわちシャーマニズムが権力=政治システムと化したとき、はたして何が現われるのか。
 言語の寡占化が図られるのである。
 凄まじい言語戦争、文字戦争が繰り広げられるのである。権力者たちはきまって、そのときに最も呪カの強い言葉や文字を集めて、それを法文に組織化することを企図する。古代においてはとりわけ、言語がそのまま政治であり経済でもあるような状況が現出していた。
 歴史はつねに勝利者の記録であり、敗北者の記録は残ることがない。ならば『古事記』や『日本書紀』という勝利者の記録ではなくて、彼らと激しく言語戦争を展開し敗れた者たちの記録は残らなかったのだろうか。いや、神代文字を伝える古史古伝と呼ばれる一群の古文書こそ、敗北看たちによって必死に書き残された記録だったのではあるまいか。
『上記(ウエツフミ)』『富士宮下文書(フジミヤシタモンジョ)』『九鬼文書』『秀真実伝(ホツマツタエ)』『先代旧事大成経(センダイクジタイセイキョウ)」『但馬故事記(タジマコジキ)』『東日流外三郡誌(ツガルソトサングンシ)』……などはみな敗北者の側の歴史記録であるがゆえに、そこに“もうひとつの言語系”がひそかに綴られたのではあるまいか。
 言葉や文字はみな呪力を秘めている。いつの日かふたたぴ闘いを挑むとき、その呪力が招来されることだろう。
 さて、話をハングルと阿比留文字に戻そう。伊勢神宮の神官だった落合直澄の著した『日本古代文字考』は一種の神代文字事典で、それによれば諺文は日本の神代文字=阿比留文字が朝鮮半島に渡って成立したものだと主張する。否定論者の根拠を逆転してみせたわけだ。
 しかし……やはり、それはありえないだろう。いくらハングルと阿比留文字が共通のプロト・ハングル文化園から派生した文字だとしても。
 おそらく阿比留文字はハングルを元にした“創作”なのだろう。ハングルがかつてない呪カを秘めた文字だからこそ、阿比留文字という神代文字が誕生したのだ。ハングルの神秘的力に直面したとき、かつての遠いプロト・ハングルの記憶が蘇り、そして阿比留文字が誕生したのだ。
 では、東京の日枝神社に掲げられた阿比留文字による神号額については、どう理解したらよいのだろうか。この神号額は平田派の学者・丸山作楽の書である。その点をふまえるならば、次のような推理ができよう。
 ――明治維新は神仏分離を推し進め、国家神道を強力なものとした。だか、分離によってそれまで神社においても使われていた梵字の駆逐を意味した。梵字という呪力を秘めた文字を使用できなくなったために、その代用としてかつて篤胤が発見した阿比留文字が使用されたのだ。
 だとしても、なぜ日枝神社だったのか。
 またしてもハングルと阿比留文字をめぐって、プロト・ハングル文化圏をめぐって、大きな謎が立ちはだかる。




日記作者