暴かれた真光日本語版
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2003年02月27日(木) |
007 Insight |
正当化されたユダヤ人大虐殺: 正当化されたユダヤ人大虐殺:岡田氏はまた、ヒットラーは太陽の霊である’ひ’の霊的な行に属すると説明した。岡田氏はヒトラーによってシンボルとして使われたスワスチカ(かぎ十字章、逆まんじ)を’ひ’と呼んだ。彼は’ひ’は太陽神の力のシンボルである陽の霊の方向に回転する、すなわち霊を陽に開く意味を持つと教えた。ヒトラーの起源に関する岡田氏の説明では、第二次世界大戦におけるヨーロッパでの軍事侵略は正当化され、それは創造神の祝福を受けた壮大な神の計画の一部だという....神はユダヤ人とその他の戦争犠牲者を罰したのだという。ユダヤ人とその他の犠牲者は、彼ら自身あるいは先祖の罪と穢れをあがなうこと以外に他に選択肢がなかったのだという! ダビデの星をかぶせたスワスチカは真光の重要なシンボルである。○○真光はダビデの星を彼ら自身のものとして復活させた。彼らの主張によれば、神がダビデの星を根源の超宗教に戻し、また本来の名前、岡田氏はそれをカゴメの紋という、に戻したのだという。
軍隊のユニフォームに身を包んだ真光青年が岡田女史の名前をたたえながら隊列を組んで行進するのを見ることは、第二次世界大戦当時にヨーロッパに住んでいた年配の信者にとってはヒトラー青年団の記憶を生き生きと思い出させるものである。その類似性はぞっとするほどである。真光青年もまたその制服や普段着に、真光青年であることを示すために決められたスワスチカのマークを付けている。
正当化された日本の軍事侵略: 戦後の日本における、(すべての個人ではなく)日本政府が示している一般的な態度は、責任をとりたがらず、また南京レイプ事件や第二次世界大戦におけるアジア/太平洋地域への侵略を認めたがらないというものである。太平洋における日本の軍事行動は、「大東亜戦争」と呼ばれ、日本が国としての主体性を失うことを退け、アジアを共産主義の脅威から開放するための戦いだったとされている。
日本の極右軍国主義者は、「大東亜戦争」は日本の天皇の「神」の名のもとに行われた聖なる戦いだったと主張している。真光もまた、教団の書物や陸軍中佐であった岡田氏の伝記のなかでこの見方を肯定し、このように書いている。「彼は病気のため、最前線(1937年、中国でレイプや略奪が行われていたところ)の自分の軍隊と一緒にいられなかったことを悔しがった。彼は代わりに電話で状況を聞いていた。」岡田氏はまた、連合国軍によって破壊されるまで、第二次世界大戦中の帝国の戦闘機を作る工場を所有していた。彼は日本の帝国主義に献身し、それは彼の伝記や教え全体に反映されており、それは真光の隠された錨(根本をなすもの)である。ほとんどの信者はこのような錨が存在していることを知らない。
こういう報告がある。日本の歴史教科書は、帝国主義者の見地を反映して書き直され、学校で使われている。主な支持者は石原S太郎氏という、有名な国粋主義者であり、彼は作家であり以前の内閣の運輸大臣である。彼の視点では、南京レイプ事件は中国の作り話でありうそであるという。岡田氏と石原S太郎氏の接点は、真光の書物の中に見出され、石原氏の子息のN晃氏によって確認されている。
石原S太郎氏は、オウム真理教が1989年に東京都庁に申請して許可され、宗教法人の資格をとったときの主な後援者だったとうわさされている。このことは、東京の地下鉄サリン事件の直後におきた彼の突然の辞任を説明するものである。(東京都庁は、そのときの文書をメディアにコピーして配ることをしないだろう。それは完全に違法であり、意図的な妨害である。)自民党の元国会議員である「ハマコー」こと浜田幸一氏は、石原氏、山口氏、中西氏をオウム真理教の後援者だとして、1995年夏の昼のテレビショーで非難していた。
オウム真理教と真光: 日本の中心的政党である自民党とのつながりが暴露されていくことは興味深いことである。もし、オウム真理教が主要な世界の大惨事を引き起こすための機構だとしたら、真光は大惨事のあとの新しい秩序を日本の天皇の名のもとに作り上げるための機構といえるだろう。真光の信者は、自分たちを「種人(たねびと)」と呼び、生き残ってリーダーシップをとる役目があると信じている。これが、信者をより一生懸命にさせ、より多くの時間とお金を教団の拡大のために捧げるようになる要因の一つである。
ここにはもう一つの"win-win situation"(どちらにしても教団に有利な状況)がある。もし、教団の予言どおり世界が破滅したら、真光はそれに備えていたことになる。もしそれがおこらなくても、真光はその努力によって神の怒りを鎮め、人類を救ったという手柄をたてることになる。彼らが主張するには、世界が今まで破滅を免れてきた唯一の理由は、岡田女史が人類に成り代わって神に詫びているからだという。一方で彼女は、残された時間は少なく、真光の信者はもっと努力しなければならないと警告している。
真光は、世紀末の世界終末論のヒステリーを生み出して保ちつづけ、それを利用して教団を存続させている。そのヒステリーを教団が大きくなるための手段として用い、儲けの多い宗教マーケットにおいて、魂の救済と愛と調和に満ちた平和な世界での永遠の生命を究極の商品としている。オウム真理教は、彼らの力を悲劇的な結果によって示していく過程において、さらなる一歩を踏み出して予言されていた社会の動乱を時期尚早に引き起こしてしまったことは、よく知られている。1995年の東京における地下鉄サリン事件は、世界を震撼させたが、それは彼らの軍事的たくらみや政治的課題の氷山の一角に過ぎなかった。(→5.御聖言−警世の書−、参照)
信憑性?: 公式な写真の中で、岡田良一氏は誇らしげに米国国際アカデミー協会から授与された勲章を身に付けている。彼は勲章の巨大な複製を日本の熱海の自宅の外に飾ることさえしている。教団によれば、その勲章は1972年2月17日に東京ヒルトンホテルにおいて当時の外務大臣であった福田赳夫氏の出席のもとに授与され、福田赳夫氏を発起人としてパーティが開かれ、10を超える国の大使や国内の多くの著名人が参加した。岡田良一氏はその受賞によって、何人かのアメリカ大統領や、ローマ法王や枢機卿やカンタベリー大主教などに引けを取らない人物であると認められたという。
米国国際アカデミー協会は岡田氏にナイトコマンダーの称号と最高の(ギリシャの)勲章であるセントデニスザンテのナイトの勲章を与えたという。教団によれば、その勲章はキリストの時代の紀元34年に制定され、国際的に賞賛に値する貢献をした人々に授与されるということである。
世界中のデータベースや図書館での調査や、騎士道の専門家からの情報によりわかったことは以下のとおりである。: この勲章は"Self-styled order(セルフスタイルドオーダー:自称勲章)"と呼ばれる私的に作られたものであり、かの悪名高い伯爵である Pericles Voultsos によって1940年代ないし1950年代につくられ、彼によってたくさんばらまかれた。イタリア政府は1953年に信用できない勲章のリストを作り、この勲章もそのリストの中に入っているものの、この勲章は彼の発案によるものであり、本物の勲章を真似たものでもないため、非難されることはなかった。この勲章は個人事業団体が与える勲章であり、本物の騎士道の勲章ではない。このような個人的な勲章をつくるねらいは、有名人に勲章を送りつけてその有名人の名前を会員の中に入れて(その団体の宣伝などに)活用するためである。有名人の多くはその勲章をもらってもありがたいとは思わず、勲章を身につけることもない。私たちは、かかわらないようにしたほうがよいと、アドバイスされた。
(注:セルフスタイルドオーダー(自称勲章)に関する情報源) http://www.chivalricorders.org/orders/self-styled/slfstlod.htm http://www.heraldica.org/topics/orders/itbgord.htm
教団出版物における矛盾点等(セントデニスザンテ勲章) 参照 ザンテというのはギリシャの沖にある島のことである。セント・デニスという人がどういう人だったのかについてははっきりしたことはいえないが、一つの伝説によれば、彼は紀元250年に首をはねられたあと立ち上がり、首を持って歩いたとされている。または、ディオニシュオスアレオバゴスと呼ばれるもう一人の人物と混同されているのかもしれない。アメリカのワシントンにおいて、米国国際アカデミー協会と呼ばれる組織にコンタクトをとってみたところ、この協会はそのような賞など与えておらず、それはつくり話だろうということであった。この協会以外では、米国国際アカデミー協会と呼ばれる組織は今までのところ見当たらない。
世界の宗教の統一: ○○真光の基本的な教義の一つには、すべての主要な宗教の「統一」があり、これはまたS界真光文明教団の主要な信念の一つでもある。その基礎には、すべての宗教は霊的にも物理的にも人類の起源である日本から生まれているという信念があり、神から与えられた真光の使命はすべての人類をその起源である日本の皇室のもとに立ち返らせることだという信念がある。
1974年に岡田良一氏がS界真光文明教団の創始者および指導者として亡くなったとき、裁判の記録によれば、彼の後継者は関口尊師(Reverend: 師、尊師)であった。岡田女史は、岡田良一氏の通夜と数年後の裁判の両方の席においてこの事実を認めている。岡田氏が亡くなったとき、彼の教団の中には2つの派閥があったらしい。一つは関口氏率いるもので、もう一つは岡田女史が率いていた。このときすでにS界真光文明教団は分裂寸前であり、すべての宗教を統一するというその基本的な教義は崩壊の危機にあった。
1974年6月25日に、岡田女史が関口氏と27人の立会人に対して関口氏がS界真光文明教団の次の指導者であるという発表を行った後、彼女は自分の派閥の一人から、関口氏を教祖として承認することに関してはその人の了承がなければこれ以上何も言ってはいけないと言われた。1974年7月5日に、彼女は秘密裡に自分をS界真光文明教団の代表者として大森の登録事務所に登録した。後に彼女はそれを取り下げることになった。彼女は自分が教団の次の指導者になると主張し、関口氏と27人の立会人は彼女の言葉を誤解したのだ、と言った。6月25日に彼女が言ったことは、関口氏は自分の代理人である、というものだったと彼女は主張した。この主張は、6月25日に彼女が実際に言ったことと完全に矛盾するものであり、長年にわたる混乱と裁判での争いを引き起こした。信者たちの寄付は、信者に知られること無く裁判における弁護のための費用に費やされた。なぜ岡田良一氏は明確な意思や書面による指示を残さなかったのだろうか? もし彼がそのような非常に重要なことをするのを忘れたのだとしたら、その他にも何を忘れたというのだろうか?彼の神はどこにいたのであろうか?
この時点で真光に対する全般的な信頼性は、厳しい監視下におかれるべきであった。岡田女史の宣伝戦略はトップギアに入った。関口氏は何人もの愛人を持っているとか、病気にかかっているなどと誹謗中傷された。一方で岡田女史は、その当時の真光信者にとって究極の使命であった神の世界総本山すなわちス座の建設という、神が与えた役割を担う唯一の人とされた。岡田女史が裁判で負けることが明らかとなったとき、彼女は○○真光と呼ばれる自分自身の教団を1978年6月に設立した。S界真光文明教団の多くの信者は離脱し、○○真光に行った。なぜなら、道場(各拠点)の指導者たちが、岡田女史に対して忠誠を誓い、道場の信者たちを引き連れて彼女の側についたからである。普通の信者たちには、元の教団に留まる選択肢はどの段階でも与えられなかった。このような教団の指導権をめぐる争いは、一般には信者に知られていない。典型的なカルト教団においては、沈黙することこそが最高の戦略なのである。
最近、その沈黙の殻が破られてしまい、その情報は色々な情報源から流れ始めた。○○真光の信者にとって最も痛い一撃は、岡田女史のス座は、元の教団であるS界真光文明教団のス座より小さいことを知ることである。
現在の○○真光は、信者だけが信じられる(信じたがる)言葉を使って上述の経緯を説明しようとしている。それは、世界中で起こっている信者の流失を食い止めようとする努力の中で行われている。例えば、次のようなものである。
岡田氏の霊/魂は、亡くなった後49日間さまよっていたのです。岡田氏は個人的に、S界真光文明教団を1974年の6月13日に彼女に渡しました。それは彼が亡くなる10日前のことでした。岡田女史はそれを公表しませんでした。彼女は、岡田氏が霊の世界で人類の救済者としての役割を始める前に(注:岡田氏の霊がさまよっている49日が終わるまでは)、教団を継ぐことを宣言するのは非常に無礼なことなのでできないと感じたのです。
教団の指導者たちはまた、世界中の元信者たちの研究チームがあつめた情報はすべてうそだと言っている。
次第に明らかになっていることは、真光が宗教を統一するというよりむしろ超宗教になるということは、岡田氏独自の歴史解釈や「黄金の言葉」と「神」の導きなどを利用して、日本は偉大な国であるという思想を使い、個人個人がもともと持っている信念の核心部分を捨てさせることに等しいのである(←注:この一文はよくわからないので訳が間違ってるかもしれません)。真光それ自体を神が人類に与えた唯一の宗教とする試みは、信者をとても混乱させるものである。特に、○○真光はS界真光文明教団の分派であり、また文明教団もS界救S教の多くの分派の一つであり、さらにS界救S教も1892年に設立された大本教によって生み出されたものである。
-------------------- 真光裁判資料 ・S界真光文明教団側の資料(英文) http://geocities.com/Tokyo/7137/truth1.htm (←文明教団の要請により削除された) ・「宗教関係判例集成」 第一書房 第4巻・第5巻 「S界真光文明教団代表役員地位保全事件」 ・原審:東京地裁、(昭四九(ヨ)第二〇四六号地位保全仮処分申請事件) ・「中外日報」昭和57年9/3 9/6 9/8 9/15号 ・「宗教法学会報」昭和59年11月17日 -------------------- 岡田氏は他の教えを盗用した: 調査によれば、岡田良一氏はS界救S教の信者であり指導者の一人でもあった。彼は「岡田仲道(ちゅうどう)」という名前で知られており、光玉尊師(先生?)と呼ばれることが好きだったという。彼は性的な不品行をしたことと霊との対話(霊査)に没頭したために教団を追われた。彼が言うには、すべての人には憑依した霊がついており、それが問題を引き起こすと主張していた。1959年に、彼はS界真光文明教団と呼ばれる彼自身の教団を設立した。
岡田氏が主張するには、1959年の2月に神が昏睡状態にある彼を起こし、光玉という名前と神の啓示を与えたという。彼は1959年の2月以前に光玉という名前を使っており、その「神の啓示」は実際は彼の以前の師であった岡田茂吉氏(親戚関係はない)の教えのコピーである。神のペンダントを使うことや、光を手から放射することもまた、S界救S教の特徴である。(→3.崩壊しつつある真光の基礎、参照)
真光は、岡田氏はS界真光文明教団を始めるまでは何の宗教にもはいっていなかったと主張する。彼が10年ほどの間S界救S教の信者であったという事実は、岡田氏がブッダの予言にある「その人」であるという主張と矛盾するものである。:
「正しい教えを説く‘その人’は、在家から現れる。(宗教の経験を持たない人の中から現れる。)」
(注:「在家」とは、ブッダの弟子以外、すなわち仏教徒以外のことである、という解釈もあります。しかしながら、真光では(初級)研修において、「在家」とは宗教の素人という意味であり、岡田光玉氏はその素人であった、だから岡田氏はブッダの予言した救世主だ、と教えています。つまり、「在家」という言葉の正確な意味はともかく、真光(岡田氏)は明らかに自分の理解した「ブッダの予言」に沿うように岡田氏の過去を隠蔽し、岡田氏を救世主にしたてあげようとしています。) 岡田氏は、大量で多岐にわたる情報の中から、自分は現代の混迷を正す役割を神から与えられたのだという主張を支持する情報を集めた。彼は良く知られた日本の伝説や神話に対して新しい意味や説明を考え出すことさえして、事実をねじ曲げて彼の目的に合うようにした。彼が以前にいた教団であるS界救S教と真光との主な違いは、岡田氏の軍人としての固定観念に伴う先入観から生じている。
英語/日本語の翻訳: オリジナルの日本語の教えを調べることは興味深い。岡田氏は関連する教えを一つにまとめず、むしろ教えをまとまりのない形でたくさんの書物に分散させている。このようにして、その底流にある哲学が隠されてしまっている。客観的な研究者は、その教えの階層と岡田氏の哲学の意図に対する基本的な洞察を得るためには、初級、中級、そして上級研修を受ける必要がある。岡田氏の教えを深く調べようとする信者でさえ、それは難しくて時間がかかり、日本語が読み書きできることが必要なため、あきらめてしまう。信者はとにかく日本語を理解する必要はないと言われる。岡田氏の教えは「黄金の光」に乗っており、その本は「光」を放射しており偉大な救いをもたらすとされる。結果として、ほとんどの真光の信者、特に日本人でない信者は、岡田氏の言葉の中に何が含まれているのかを知らない。普通の信者たちは、指導者に教えられたとおりの非常に浅くて個人的な理解に基づいて教団を弁護しようとする。ある意味で、真光の信者は岡田氏の教えを分析的な視点から読む気力を奪われている。どのような混乱も、解決するために手をかざして「光」を与えよ、「もっともっと光を与えよ」と指導される。愛とか調和とか利他愛などの、「心地よい言葉」に包まれつつ、感情的に反応することが奨励されている。
彼の教えの中にある、日本語と英語の言葉づかいは非常に巧みである。ロマンチックで健全な概念が、彼のゆがんだ歴史認識と、一般的な認識を彼独自のイデオロギーに変更させようとする熱意を挟み込んでいる。この研究の著者が参照している真光の情報源の多くが、今だに英訳されていない。日本語のものでも英訳でも、現在の状況にうまく合致するように変更されていることは明らかである。つまり、1978年の厳しい裁判を戦ったあとに設立された○○真光は、すべての出版物から岡田氏の元の教団名であるS界真光文明教団という名前を消し、岡田良一氏によって使われた名前としてその名前「○○真光」を挿入することさえしている。岡田氏が○○真光が設立される4年前に亡くなったという事実は、彼ら(○○真光)にとっては信用問題とはならないらしい。これはまた、面白いことでもある。なぜなら、岡田氏ははっきりと自分の言葉を変えてはならないという教えを残しているからである。
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