暴かれた真光日本語版
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2005年09月27日(火) 崇教真光と考古学 その3(批判1)

崇教真光と考古学 その3(批判1)


[558]崇教真光と考古学 05/10/06 14:12 9Hqd6qPk93
【批判】
 石器捏造事件についてはいまさら書くまでもない。最近恵珠氏の教示をまとめた『神の契約の虹』が出版されたが、この平成8年10月度月始祭・秋季大祭の教示は当然ながら掲載されていない。
 また、相沢氏が夏井戸遺跡より30万年前の石器を発見したなどと何度も書いているが、せいぜい6万年前である。
●相沢忠洋記念館公認ホームページ――『夏井戸遺跡は約6万年以上前の年代』
www.interq.or.jp/gold/waki/aizawa/tenji/tadahiro/tadahiro.html
 現在、もっとも古いのは岩手県金取遺跡と長崎県入口遺跡で、9-10年前とみられている。

【解説】
イ.『三内丸山遺跡の500人説』を斬る
■三内丸山遺跡2 急がれる論争の検証 (デーリー東北新聞社04.01.27掲載)
 保存が決定されてから、今年でちょうど十年目を迎える三内丸山遺跡だが、新たな“縄文時代像”を打ち立てる上で、本当に画期的な意味をもつ「特別な遺跡」なのか、それとも、単にスケールが大きいだけの「普通の遺跡」なのか。
◎問われる意義
 これほど、さまざまな角度から縄文の議論が盛り上がったのも珍しい。遺跡をどう評価するか、は三内丸山をめぐる重要な論争の一つとされ、発掘が始まって以来、問われ続けてきたテーマでもある。
 上の図をみてほしい。大型の盛り土はちょっとした古墳クラスの規模という。墓とセットになった大型道路しかり。このため縄文の“聖域”をイメージする研究者もいるほど。
 少なくとも、ここから見えてくるのは「特別な遺跡」像と言っていいだろう。「ほかの縄文遺跡に比べて、量的にも質的な面でも際立っている」(岡田康博・文化庁文化財調査官)というわけである。
 だが、遺跡の解釈を異にするサイドからは、こんな意見が出されている。
 三内丸山が高く評価されるのは、この遺跡に縄文の要素が凝縮されているからで、大型構築物や豊富な出土遺物などの事例は、既にほかの遺跡でも確認されており、三内丸山の“専売特許”ではない。従って、ここだけ特別視するのは、結果的に縄文文化の本当の姿を見誤ることにつながり兼ねない―と。
◎ムラ人口とクリ栽培
 「500人居住説」をめぐる論争もあった。
 一時期、この三内丸山のムラには約百軒の竪穴住居が同時に存在しており、一軒当たり五人家族と単純計算して、ざっと500人が生活を営んでいたというのが「500人説」。
 そのころ、考えられていた縄文時代集落の住居戸数はせいぜい数軒、多くても十軒程度というものだった。つまり、一集落の居住人口は最大にみても「30〜50人前後」となるわけだが、佐原真さん(元国立歴史民俗博物館館長・故人)も、そんな見方をしていたという。
 それに比べると「500人」はまさに、考古学的な常識を根底から塗り替えるもの。「実はボクもそう考えていた」。村越潔・青森大学教授がそう話すくらいだから、当時は圧倒的な支持を受けていたのだろう。
 縄文論争はこれだけにとどまらない。▽「社会階層」▽「縄文都市」▽「縄文農耕」▽「遠隔地交易」。ざっと見てもこれほどあるわけだが、もう一つだけ紹介する。静岡大学助教授の佐藤洋一郎さんが、クリ栽培が行われていた可能性が強い―という説を提唱している。
 クリのDNA分析という科学的な手法で注目されたが、栽培を具体的に裏付ける痕跡は、検出されていない。どのようなレベルを栽培と定義するのか、難しい問題もあり、これも「まだ仮説の段階」(県三内丸山対策室)にとどまっている。
 論争点が多いのは、それだけ三内丸山への関心が高いことを意味している。しかし、だからといって喜んでばかりもいられない。なぜなら、これまで浮上してきた論争事例の多くは、いまだに決着をみておらず、ほとんどペンディングの状態になっているからだ。
 これまでの発掘を通して、何が分かったのか、そして何が分かっていないのか。三内丸山が今、求められているのはそんな答えなのかもしれない。
 ところで、遺跡発掘調査報告書の取りまとめが膨大な出土資料の整理分析に手を奪われ、大幅に遅れているという。これまでに完了したのは「盛り土」関連だけで、六本柱も正式報告書ではなく、まだ概要版の段階にとどまっているらしい。
 「過剰なロマンは縄文文化の真実をくもらせる」。ある考古学者の言葉だが、三内丸山がそうならないように、正しい情報を発信する調査報告書の作成を急ぐべきだろう。課題は山積している。(編集委員・江波戸 宏)


[559]崇教真光と考古学 05/10/06 14:13 9Hqd6qPk93
ズームイン
千五百年続いたムラ
 三内丸山の特徴を示す「大」「多」「長」のうち、「大」は巨大木柱に代表されるが、これはここだけに限った特別の遺構ではない。国内最初の発見例は新潟県・寺地遺跡の四本柱(直径約60センチ、縄文晩期)で、それ以降は石川県の新保チカモリ遺跡(晩期)などで見つかっている。用途は不明。巨木遺構は北陸に多い。
 その次の「多」は、大量に出土した土器や土偶などの遺物のことだが、函館市の中野B遺跡(中期)では、膨大な量の土器が発掘されている。その数、ざっと19万点。
 「長」は約1500年間続いたムラの継続期間だが、さすがにこれだけの記録をもつ縄文集落はほかにない。「長」を除けば「大」「多」をを示す、ほかの遺跡もないわけではない。

縄文雑記帳
「500人説」は未解明
 三内丸山の居住人口「500人説」が批判にさらされ、今ではすっかり影をひそめてしまった理由は何だったのか。
 1つは食料問題。クリを中心とした堅果類が主な食料と考えられているが、それだけで500人分の食料はとても賄い切れないというわけだ。もう1つは竪穴住居の算定上の問題。
 集落は約1500年の長期にわたって営まれた。住居は原則的に元の場所に立て替えられており、当然、その柱穴跡は激しい切り合いを示している。
 500人とすれば当時、竪穴住居が少なくとも100軒程度、同時存在していたことになるわけだが、それを柱穴の激しい切り合いの中から、証明するのは可能か。県考古学学会長の市川金丸さんは「一定の時期に限り、同時に存在した住居数を割り出すのは難しい」としている。加えて、縄文人の家族構成も解明されていない。どうやら、不確定要素の上に構築されたのが「500人説」だったようである。人口の多さは集落の継続性によるという見方が強い。
www.daily-tohoku.co.jp/kikaku/kikaku2003/jomon/jomon_40.htm

ロ、『高度な縄文の大工技』は誤り!
富山新聞社2003年7月14日更新
www.toyama.hokkoku.co.jp/_today/T20030714002.htm
「貫穴のある木材」だった 小矢部・桜町遺跡の柱材出土品 市教委、調査結果を発表
 小矢部市教委は14日、1997(平成9)年9月に縄文時代中期末(約四千年前)に木工技術「渡腮(わたりあご)」が施された日本最古の柱材として出土を発表した同市の桜町遺跡の木材が、保存処理後の確認調査などの結果、木材を通すために穴を貫通させた「貫穴のある木材」と訂正した。東北芸術工科大の宮本長二郎教授と市教委が明らかにした。
 同柱材はクリ材で長さ3.17メートルで、縦約20センチ、横約15センチにわたって加工が施されている。当初は柱に切り込みを入れ、木組みを頑丈にするための凹凸細工を施した「渡腮」と考えられていたが、土や汚れを落として調べた結果、穴が貫通していることが確認された。
 このため、現状では同技法が施された「渡腮仕口(しぐち)材」とはいえないとし、「貫穴のある材」と訂正した。


[560]崇教真光と考古学 05/10/06 14:13 9Hqd6qPk93
北日本新聞2003/07/15朝刊
www.kitanippon.co.jp/pub/fmail/backno/oyabe/2003/0063.html
●「渡腮でなく貫穴」桜町遺跡の建築技法を訂正 小矢部市教委
 小矢部市教委は14日、桜町遺跡から出土し、木材を削って凹部と凸部を交差させる「渡腮仕口(わたりあごしぐち)」の技法を用いた縄文時代の建築部材に関し、穴を開けた木材に別の木材を通す「貫穴(ぬきあな)」の技法だったとみられると訂正した。古代建築史の第1人者、東北芸術工科大(山形市)の宮本長二郎教授は会見で「貫穴を使った建築部材としても、日本最古。縄文時代の木材加工技術の高さは変わらない」と説明した。
 建築部材はクリを用い、長さ3.2メートル、太さは約20センチで縄文中期末(約4,000年前)の木材。同市教委は平成9年、複数の専門家の鑑定を経て、高床建物の建築部材の中に渡腮仕口の技法が用いられていたと発表した。保存処理のため元興寺文化財研究所(奈良県生駒市)に移送。土を取り除き、樹脂などを使って復元した結果、凸部に高さ2.5センチ、幅12センチの穴があり、貫穴工法の穴と判断した。
 宮本教授は「渡腮仕口の木材を転用するため、後に穴を開けたとも考えられるが、貫穴として建築に使用されたとみられる」と説明。建物の地面に垂直に立つ柱として用いられたと推測する。
 貫穴の使われた建築部材は、桜町遺跡では既に3つ発見され、今回で計4つとなった。
 訂正の原因について市教委は「付着していた泥を完全に除去しないまま判断した。今後は発表に慎重を期す」と述べた。宮本教授は「建築部材はもろく、破損の可能性もあるため、現場で泥を完全に取り除くことは難しい」と話した。
 訂正のあった建築部材は14日から、桜町JOMONパーク出土品展示室で公開した。

●発表・検証の難しさ示す 桜町遺跡の発表訂正
 桜町遺跡に関する小矢部市教委の発表訂正は、平成13年に縄文晩期(2500年前)とみられていた高床建物の屋根材を放射性炭素年代測定(C14)の結果で古墳時代前期(1700年前)と改めたのに続き2回目。未知の発見を扱う考古学の発表と検証の難しさをあらためて示した。
 有機物が残る遺跡自体が少ない中、破損しやすい遺物を壊さないよう保護し、保存処理に回した当時の判断について、「致し方なかったのではないか」と同情する声が多い。しかし、付着していた泥を完全に除去しないままの判断で、「国内最古の発見例」とした市教委の発表が全国を駆けめぐった。ほかの遺物に対しても信頼性に疑問符が付くことが危ぐされる。
 実際、屋根材が年代訂正されたときは、同遺跡の遺物を縄文時代の建築を考察する上で引用するのを避ける研究者もいた。市教委はその後、C14年代測定法で十点の木材を測定し、それらは従来通り縄文中期末(約4000年前)に間違いがないことを検証した。
 今回の訂正で多くの木製品を出土した遺跡の価値が下がるわけではないが、早く信頼を取り戻すため、正確な発掘調査報告書の刊行が待たれる。


[561]崇教真光と考古学 05/10/06 14:14 9Hqd6qPk93
ハ、『世界最古級の土器発見!』の舞台裏
■7 大平山元1遺跡 揺らぐ縄文の年代感 (デーリー東北新聞社03.05.20掲載)
 青森市の県立郷土館。ここの展示室に親指大くらいの土器の破片十個が展示されている。そばの説明プレートにはこう書かれている。「無文土器片 縄文時代草創期」。ただの土くれではない。日本最古という肩書付きの土器で、縄文時代の起源に関する論議には、必ずといってよいほど登場してくる。
◎常識覆す衝撃
 「困った…。予感もないわけではなかったが、その時は本気でそう思った」。同館の三宅徹也学芸課長は、28年前のその日をこう振り返る。昭和50年の文化の日。場所は蟹田町の西端に位置する「大平山元1遺跡」の発掘現場。
 そこから、石製ナイフなどの石器と一緒に、新しいタイプの石鏃(ぞく)などとともに、土器の破片二点が出土したのである。三宅さん(当時学芸員)らを混乱させたのは出土遺物の奇妙な組み合わせだった。前者は旧石器時代、後者の石鏃=矢じり=と、土器は縄文を代表する遺物というのが、当時の常識だったからだ。
 異なった時代に属する石器と土器が同時に、しかも同じ地層から出土するというケースはもちろん青森県内では初めて。ただ、土器を除けば、石器群の構成は東北町の長者久保遺跡から出土したそれと、かなりの共通点をもっていた。
 土器を伴わずに、新旧タイプの石器が混在している文化を御子柴(長野県)・長者久保文化と呼ぶ。それに共通する特徴から「大平山元1遺跡」の問題の土器片は、旧石器から縄文時代に移行する際の「草創期」のものと推定された。
◎日本最古の土器
 これが後に、考古学界をアッといわせる衝撃につながっていくとは、三宅さん自身「夢にも思わなかった」。
 それから25年後。新たな調査に伴って同遺跡から出土した、炭化物が付着した土器(無文)片5個について「放射性炭素C14年代測定法」で、年代測定を行ったところ、何と1万2000―1万3000年前という結果が出てきた。
 それまで国内で一番古いとされていた隆起線文土器より、さらに古い無文土器の存在が浮上してきたわけだが、衝撃はそれだけで終わらなかった。さらに炭素年代判定の精度を高めるため、今度は「暦年代較正」という新手法を加えて分析したところ、問題の土器片の較正暦年代は、最も古い値で「約1万6000年」前、平均値で「約1万5000年」前、という数値が得られたのである。
 縄文時代はざっと五千年ぐらい前というのが、ひところの常識だった。最近は1万2000―1万3000年前が一般的な見方だが、較正暦年代はそれをさらに数千年も押し上げるデータ。それは土器の出現時期が旧石器時代、それも最終氷河期の真っただ中という可能性が出てきたことを意味している。
 炭素年代と較正暦年代の出現は、大きな宿題を突き付けることになった。いずれにしても、縄文の年代観そのものが再検討されなければならない時期にきていることは間違いないだろう。


[562]崇教真光と考古学 05/10/06 14:15 9Hqd6qPk93
 ◎定説がない!
 「教科書は一万年前、授業でもその通り教えています」
 縄文時代の起源について、ある中学校で聞いたらこんな答えが返ってきた。教育の現場で生徒に教える「一万年前」はいささか、時代遅れの印象もないではない。一般の専門書では一万二、三千年前という記述が主流となっている。
 三月初め、中里町の町立博物館で開かれた「十三湖周辺の遺跡」展をのぞいてみた。驚いたことに、会場の年代説明プレートには「縄文草創期 一万五千年・一万年前」とあるではないか。一般にはまだ、なじみの薄い較正暦年代からの“借用”であることは明らか。こっちは逆に走りすぎとも言えるが、いずれにしても縄文の起源は諸説が乱れ飛んでいる格好。
 揺らぐ縄文の年代観。これだと何を信じたらいいか、さっぱり分からない。定説自体が揺れているわけだから、それも無理のない話なのだが…。

 ズームイン
 暦年較正で誤差補正
 青森県教育委員会発行の「縄文文化の扉を開く」は、縄文時代の始まりを今から約一万二千年以上も前とし、カッコ付きでこう、続けている。「(最新の炭素14年代測定法での実年代では約一万五千年前頃まで)」。可能性の問題として、縄文時代の起源は一万五千年以前にまでさかのぼれるというわけだ。
 発掘された土器などの遺物には炭化物が付着しているケースが多い。放射性炭素C14年代測定法は、放射壊変の性質を利用して、遺物に含まれるC14の減り具合を調べることで、土器などの炭素年代(BPで表記)を特定するのもの。近年はこれが考古学に導入され、年代判定の分野で効果を上げている。厳密に言えば、この炭素年代も実年代とは必ずしも一致しない。大気中のC14濃度が常に一定でなく、経年変化しているためで、その誤差を補正する手法として登場してきたのが「暦年較正」。冒頭の約一万五千年前は較正暦年代(calBP)のことだが、研究途上の段階であり、信頼性の確立が今後の課題という。

 縄文雑記帳
 “日本最古”の遺跡
 蟹田町の「大平山元遺跡」は津軽半島の東側ほぼ中央部に位置し、旧石器と縄文時代の複合遺跡。国道沿いに「日本最古の縄文遺跡」の標識があるくらいだから、簡単に探せると気楽に思ったが、そうではなかった。
 やっと見つけた「1遺跡」は県道から奥まった場所の住宅脇に、小さな案内板がひっそり立っているだけ。これでは見つけるのも難しい。いささか拍子抜けの感もあり、そんな思いを町役場の担当者にぶつけたら、こんな返事が戻ってきた。「遺跡は個人の所有地。迷惑が掛かるので、そんなに大々的に宣伝もできないんです」
 全国からの照会も多い。蟹田町は同遺跡の重要性から、保存や整備に向けて国の史跡指定を申請するため、平成12年から遺跡の範囲の確認や内容などの学術調査を5年計画で展開中。気になる国史跡の指定の見通しだが「今回の調査を通じて、もっと新しい史実の発見があること、それが鍵になるでしょう」と、同町教育委員会の駒田透主査は言う。
www.daily-tohoku.co.jp/kikaku/kikaku2003/jomon/jomon_07.htm
【書込み者注】年代測定は、複数の方法を用いて比較検討すべきである。


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